コネクト通信2017

アートミーツケア学会@京都に参加しました。

 12月14日~16日の三日間、京都芸術センター、京都市立芸術大学で開催されたアートミーツケア学会にコネクト代表のササマユウコが参加しました。現在この学会が運営する青空委員会からは、協働プロジェクト「聾/聴の境界をきく~言語・非言語対話の可能性」に助成を頂いています。

 また学会当日の詳細につきましては学会サイトやFBの記事をご参照ください。今後、報告レポートが掲載されると思います。

 ※写真は基調体操『集団のアホーダンス』にて、大きな舞台装置をみんなで協力して動かすという体験をしています。

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シネマ哲学カフェ+『LISTEN リッスン』上映会@上智大学グローバル・コンサーン研究所

 去る11月24日に上智大学グローバル・コンサーン研究所主催のシネマ哲学カフェ~『LISTENリッスン』上映会+哲学カフェが開催されました(進行役・上智大学哲学科教員・寺田俊郎先生)。CONNECT/コネクトは作品と大学の橋渡し、企画発案~実施までを協力させて頂きました。

 当日は、現在進行中の協働プロジェクト『聾/聴の境界をきく~言語・非言語対話の可能性』メンバー(雫境さん、米内山陽子さん)と『LISTEN リッスン』共同監督の牧原依里さんが参加し、米内山さんは全体と対話の手話通訳を、監督お二人は最後の質疑応答に登壇しました。

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協働プロジェクト『聾/聴の境界をきく~言語・非言語対話の可能性』第1回境界リサーチ「コトバ|音|カラダ」を実施しました。

 11月19日に協働プロジェクト『聾/聴の境界をきく~言語・非言語対話の可能性』の第1回境界リサーチ活動「コトバ|音|カラダ」を実施しました(メンバー:雫境、ササマユウコ、米内山陽子 会場:アーツ千代田3331 助成:アートミーツケア学会青空委員会)。

 初リサーチということで、どのような方が集まるかはメンバーも未知数でしたが、手話勉強中の方をはじめ、聾・聴を問わず身体表現や音楽、舞台芸術に関わっている方が中心となりました。聴者に用意した「耳栓」は遮音目的というよりは意識を「内側」に向けるための補助具として、使用は自由としました。実際アンケートでも、耳の中の違和感を理由に使用しなかった方も数名いらっしゃいました。

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シネマ哲学カフェ『LISTEN リッスン』上映会を開催します。

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第5回ユニコムプラザまちづくりフェスタに「泥沼コミュニティ活動報告」展示で参加しました。

 

「泥沼コミュニティがはしもとでしてきたこと」報告展示会

開催日時:2017年10月15日(日)10時~15時
展示:泥沼コミュニティ
企画:芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト

 

主催:ユニコムプラザさがみはら

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「境界を考える~週末の感想から」

 昨日は地域のコミュニティでささやかに素敵に開催されている「ニチヨウツキイチ」に立ち寄りながら、映画『LISTEN』で出会った聾のアーティスト諸星春那さんの個展『DEAF HOOD+~そう遠くはない未来~in the near future』(@アートラボアキバ10/1まで)と、10年つづくコミュニティミュージック「うたの住む家プロジェクト」のコンサート『わたしの詩(うた)と歌(うた)」(@両国門天ホール 主催:即興からめーる団 助成:アーツカウンシル東京)にお邪魔しました。
 両者のイベントに関連性はないのですが、近くの会場で同時期に開催され、そこを自身が行き来する中で根底がつながったように思いました。それは何かと考えた時、頭に浮かんだキーワードは「コトバ」「時間」「境界」です。特に「境界」は現在進行中の協働プロジェクト『聾/聴の境界をきく~言語・非言語対話の可能性」について思いを巡らせているところなので、とても興味深いテーマです。サウンドスケープを提唱したカナダの作曲家M.シェーファー自身の音楽活動も、最終的には(ご尊命です)地域のコミュニティ・ミュージックに向かいます。世界を「音の風景」と捉え直した時、それは整然と平均律的に整えられた大きな音楽(シンフォニー)ではなく、非楽音も含んだ小さな音楽(コミュニティ)が混在する複合体であることが見えてきます。そこでの「境界」は何かと考えた時、「国境」のように人為的に一本の線を引いて「分断」するものではなく、塗り絵のインクが「枠」をはみ出して滲んでいくように、コミュニティ周辺には常に混ざり合った場所が存在すると考えます。そしてその場所をコネクトでは「境界」と呼ぼうと思います。
 昨日のふたつのイベントはまさにその「滲み」を内包した場だと思いました。諸星さんの会場にはスライド映写機の音がサウンドアートのように「時」を刻みながら、
彼女の世界と「対話(筆談、手話)」することが可能です。「聞こえる鑑賞者は隔てられたままになっている懸念があっても、(DEAF HOOD)をタイトルにしたのは当事者しかできないことを大切にしたかったからかもしれない」と作家自身がパンフにも書かれているように、「きこえる|きこえない」の境界を解りやすく越えようとするのではなく、「聾の世界」から滲み出てくるものを繊細に感じて掬い取るような、同時に聾者にとっては共感できるような作品が生まれていました。
 一方の「うたの住む家」は、長年積み重ねられたメンバー間の信頼関係を「内側」に閉じることなく、「公演脚本」に演劇人の柏木陽さんを迎入れることで「コトバ」を媒体に場を客席に「ひらこう」とする意思が感じられました。主催の即興からめーる団(赤羽美希、正木恵子)がもつ確かな音楽スキルで場を下支えしつつ、会場全体を包むふたりの’自然体’やユーモアが軸となって、ステージ上のコミュニティを越えて外側に届けられる「オンガクとコトバの素敵な出会い=歌」を純粋に楽しむことができました。特に今回は「音楽と演劇の境界」に生まれたステージだったと思います。
 多様性のある「境界」ではさまざまな「アート」が日々生まれています。それをどうやって「かたち」にして、内側に閉ざすことなく外側に「滲ませる」か。そこでは専門家(アーティスト)の持つ「芸術(アート)」が媒体として力を持つことはもちろんのこと、音の風景を編むように築かれた境界の関係性に生まれる「質感」こそが大切だと考えます。「暮らす=生きる」ことの延長線上にあるふたつの芸術からの雑感でした。

(9.25ササマユウコ)

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協働プロジェクト「聾/聴の境界をきく」特設ページを開設しました(9/1)

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「ダイアログ・イン・サイレンス」に参加しました。

先日「ダイアログ・イン・サイレンス」に参加しました。2012年に参加した「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の「暗闇」では「見えない人の世界」を疑似体験しましたが、サイレンスは「きこえない人の世界」を入り口に、日常のコミュニケーション方法や異文化交流など、目的や得られる’気づき’にもう少し幅があるプログラムだったと思います(※詳細は専用サイトをご参照ください)。
 アテンドは生まれつき耳がきこえない方ですが、最初は手話を使わずに非言語(顔の表情やボディランゲージ)でコミュニケーションを取ります。「音のない世界=言葉のない世界」ではありませんから、アテンドも参加者も言語(手話/音声)を使用しないという条件は同じです。つまり、ここで共有する「音のない世界」は「きこえる/きこえない」の’境界’にある世界です。そこでは、きこえない人の「表現力」や「伝える力」の豊かさが際立ち、参加者は彼女に導かれながら「音のない世界」を巡ります。
 例えば聴者である私が暗闇で体験したような「世界の反転」は、「音のある/なし」よりは、手話でおしゃべりする聾者の輪の中に、手話を知らずひとり参加することで得られます(経験上)。繰り返しになりますが「音のない世界で言葉の壁を越えること」と「きこえない人たちの世界を知ること」は少し違います。ただし彼等が持っているノンバーバル・コミュニケーションの力、ボディランゲージや表現力から学ぶことはとても大きい。個人的には「きこえる/きこえない」という「人の境界線」が「音のない世界」を共にすることで薄らぐプロセスこそが大切な体験なのだと思いました。
 興味深かったのは「言葉の壁を越える場」の案内板が文字(日本語/英語)で書かれていることでした。「非言語」という概念はやはり「言語」があるから生まれる。音声言語を使わなくても、ジェスチャーやサインを脳内で日本語変換して意味を解釈している自分を意識しました。プログラムも、手遊び(ジェスチャー)から手話(言語)につなぎながら「非言語⇒言語」のプロセスを辿ります。「言語の誕生」を考える場としても興味深いと思いました。多文化・多言語社会ではまた違った体験になるはずです。

 先日、アートミーツケア学会青空委員会の公募プロジェクトに採択された「聾/聴の境界をきく」の準備もあって、あらためて「非言語コミュニケーション」について日々考えています。今回のプログラムのように音声(オノマトペや声質等)の情報が無い世界では、実はかえって非言語情報(ジェスチャーや表情)を言語(意味)に結び付けて考えようとする力が働くことが、聴者としての自身の内側の面白い発見でした。また聴者が聾者の世界を理解するプログラムと考えた場合は、聴者側から「音をなくす」ことが重要な要素なのかどうか、実は今の段階ではよくわかりません。「みえない世界の体験」には確かに「闇」が圧倒的に有効な手段でしたが、「きこえない世界」はもう少し複雑だとも思いました。なぜならそれは生きている限り、ケージが無響室で発見したように私たちの体内にはきこえる/きこえない関係なく「音」が必ず存在しているからです。音は「耳」だけが「きく」ものではなく全身で感じることもできますし、今回もヘッドセットを装着した時に最初に聞こえてきたのはやはり自分の心臓の音や呼吸の音でした。ただし周辺の環境音から自身を切り離し内側へと集中すること、この場にいる全員が同じ条件下であるという公平感を持つことには有効でした。そこからさらに「音のない世界」の奥にある「聾者の世界」を知るためには、聴者側に「音のない言葉をきく」という次段階の意識が必要になると思いました(このプログラムでも、最後にそのことが少しだけ示唆されます)。

 では’本当に’言葉を排した「言葉のない対話/ノンバーバル・ダイアログ」とは何か。それは先日ご紹介した動画のように、音楽や身体表現(ダンスや舞踏)の世界では当たり前に「ある」ことは確かなのです。だからこそ、「きこえる/きこえない」を越えた「芸術の対話」を探ることにも意味があるだろうと、あらためてプロジェクトの役割も認識する体験となりました。しかし「非言語」について「言語」で説明することが本当に可能かどうか、それが最も適した方法かどうかは未知数です。(8.16 ササマユウコ)

※「ダイアログ・イン・サイレンス」は20日まで。予約は完売です。キャンセル待ちは当日の会場にて。

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「きこえる/きこえない」が共にある舞台『残夏1945』を観て。

「きこえる/きこえない」の境界を越えて制作された舞台『残夏1945』を観ました。2015年の終戦70周年祈念に東京・広島・長崎で上演され、多くの要望に応えて内容をバージョンアップし再演された作品です。

 この舞台の見どころは、史実である聴こえない世界から描かれた戦争の悲惨さや、わかりあえない母娘の再生物語にあります。それと同時に舞台の成り立ち同様に、聾者と聴者、きこえる/きこえないという「境界を行き来する人たち」のつながり方にもあると思いました。
 この舞台に出演しながらプロデューサーも担う、主催のサインアートプロジェクト・アジアン代表・大橋ひろえさんは聾者の舞台俳優です。野﨑美子さんは30年近く前から聾学校の演劇にも携わる聴者の演出家、脚本の米内山陽子さんは聾者を両親に持つ聴者の劇作家です。舞台上にも聾/聴の俳優たちがいて、手話や文字、時には全身を使ってやりとりする姿や、思わず出てしまう「本音」のような台詞からは、この舞台が彼等の日常と地続きに生まれたというリアリティ、説得力がありました。音のある/なしの世界を行き来し、人と人が葛藤や衝突を乗り越えながら「わかり合う」ことを諦めないこと。時間を遡りつつ、聴こえる母、聴こえない娘の関係性が修復されていくプロセスに、聾/聴の関係なく殺される原爆・戦争の恐ろしさや、連なる生命の尊さが重なっていきます。その中で「境界を越える/越えない」を選択しながら助け合う人々。そこに生まれた確かな信頼関係こそが生きることの「希望」へとつながっていくのです。
 米内山陽子らしいユーモアの効いた台詞の応酬や、ストレートプレイとパフォーマンスの境界にある美しいシーン、舞踏と芝居の境界を行き来する雫境の存在感も印象的でした。どこか無国籍な雰囲気の衣装や生演奏、時代性を排したミニマルな美術からも普遍性が生まれていました。
 今回は開演ブザーの代わりに照明で合図があったり、スクリーンを使った文字案内、また上演前の舞台説明や音声ガイド、託児サービス等、最近注目されている公共施設の「アクセシビリティ(利用しやすさ、親しみやすさ)」を意識したバリアフリー公演であったことも記しておきたいと思います。障害に限らず、高齢化や多様性社会において、誰もが舞台や音楽を生涯において楽しめる仕組みづくりは、公共劇場の最優先課題となることでしょう。今この時代の’新しい舞台作品’とは何か。そこから社会を変えるきっかけも生まれたら素敵です。(ササマユウコ記)

 

〇参照 サインアート・プロジェクト アジアン ホームページ⇒

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協働プロジェクト「聾/聴の境界をきく」スタート

協働プロジェクト「聾/聴の境界をきく」がスタートしました。

「きこえる・きこえない」の間(あわい)を見つめながら、言語/非言語対話の可能性を身体を通して考察していきたいと思っています。初回の言録映像がFaceBookにあがっていますので、ご興味のある方はリンクからご覧ください。

 

●関連動画「言葉のない対話 inprovisation」雫境/ササマユウコ/
                      記録:米内山陽子

  ※こちらからご覧いただけます⇒

 

〇プロジェクト・メンバー

身体/motion/聾  雫境(舞踏家・美術家/神津裕幸)
音/sound/聴  ササマユウコ(音楽家・Connect代表)

言葉/words/手話通訳 米内山陽子(劇作家)

 

※こちらは2017年度アートミーツケア学会青空委員会公募プロジェクトに採択されました。(8月7日)

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ソフィア哲学カフェ(テーマ:人権)@上智大学グローバル・コンサーン・研究所に参加しました

 昨年5月からちょうど1年になりますが、上智大学グローバル・コンサーン研究所で開催された哲学カフェ(テーマ:人権)に参加しました。同大学の哲学科長・寺田俊郎先生をサポート役に、哲学科の学生をはじめ、カフェ・フィロ等に通う外部の大人たちも含めた総勢20名余りの参加となりました。

 もともとは西洋から’輸入’され、この国では人それぞれに思い描くイメージや概念もどこか曖昧なままとも言える「人権」という’言葉’について、とにかく率直に考えや意見を出し合ってみる。法学や社会学の視点ではなく、あくまで「哲学」に軸足を置くことが、社会的立場や世代、国境も越えた普遍的な対話を可能にしていると思いました。また他者の考えを知ることで、自身の思い込みに気づき、視点が修正されていくこともあります。しかしそれはあくまで「自発的」に行われることで、誰かによって強制的に誘導されるものであってはなりません。
 何より日ごろ何となく使っている、目にしている’言葉’を「ひらく」場を持つことの重要性を感じました。そこに正解は無いのですが、大切なのは正誤の判断ではなく’問い続ける’こと。それは「生きる」ことに積極的に向き合う姿勢を生み出していくと感じます。ほぼ初対面の人たちが自由に、忌憚なく、安心して意見交換ができる場の必要性もあらためて実感します。「哲学的」であることが許されることで、はじめて自由になる言葉もあると思いました。決して考えることをあきらめず、他者の言葉に耳を傾け、真摯に自分の内側と向き合う時間。今の社会にこそ、こういう場がもっと必要だと感じています。

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「東京ろう映画祭」に参加して。

 世界から音を消した時に、豊かな音風景がきこえてくる。「東京ろう映画祭」大盛況でした!貴重なフランスのドキュメンタリー『音のない世界で』『新・音のない世界で』を観ることが出来て本当によかった。関連企画の井上考治写真展、神津裕幸(DAKEI)個展には「間 あわい」の芸術への新しい発見がありました。きこえること、音を出すことの「当たり前」を疑ってみる。異文化の交差点、言語と身体、社会や教育の問題、世界の調和とは何かを考える映画祭でした。

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空耳図書館のはるやすみ③を開催しました。

コネクト第一期3年間の事業として3回(実質7回+スピンオフ2回)にわたって開催した「空耳図書館のはるやすみ」。

今年もうららかな春分の日に、おやこの皆さんとご一緒に「ちょっと不思議な読書会」を開催いたしました。ご参加頂いた皆様、ありがとうございました。
◎当日の活動記録はこちらからご覧いただけます。

 

このプロジェクトは即興性と柔軟性を大切にしたアーティスト同志のネットワーク構築も目的としており、そこからクリエイティブ・ユニットaotenjoが誕生したことも収穫でした。今後も彼らの活動を応援するとともに、引き続き「空耳図書館」という緩やかな輪の一員としてつながって頂けたらと思っています。また絵本や即興、子どもに興味のある若い世代のアーティストにも門戸をひらいていきたいと思っています。
 何より絵本を入り口とした芸術世界への豊かな可能性に気づけたことが、大きな成果だったと思います。今後とも移動遊園地のような「空耳図書館」をどうぞよろしくお願いいたします。(空耳図書館ディレクター:ササマユウコ)

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「境界」を考える

●先週は秋葉原で、「境界」について思いを巡らせるふたつの場が提示されました。
 ひとつは「東京ろう映画祭」関連企画として、昨年の話題映画『LISTEN』共同監督・雫境こと神津裕幸さんの個展『紫窓~SHI・SOU』(@Art Lab AKIBA)。東京藝術大学で美術を学んだ神津氏は学生時代から「境界」をテーマに作品を制作し、今回は『LISTEN』からインスパイアされたビデオインスタレーションで「内と外」の’間’を提示しました。窓枠装置の両側から、揺れるレースのカーテン越しに移り変わる赤と青の風景が映し出されていきます。同じ映像のはずなのにふたつの世界の印象はまったく違う。どちらが内でどちらが外なのか。その相反するふたつの世界の「あいだ」に置かれた小さな窓枠の存在に気づく時、そこに作家からのメッセージを発見するのです。
 世界の仕組みはとても複雑ですが、関係性の本質はシンプルです。個展タイトルにある「紫窓」とは赤と青の二項対立として世界を捉えるのではなく、その’境界=間’に目を向けることを示唆しています。壁や線で分断するのではなく、境を流れる川のような境界の’幅’を意識すること。時にはその川に橋を架けて、相手の世界からこちら側を眺めてみること。赤だと思っていた風景が青に変わる瞬間。あらためて自分の世界は自分の窓枠から見える風景の一部にすぎないと思うのです。「あわい(間)」という言葉を思い出す。世界が重なり合うその曖昧な境界の部分に淡い紫色の水彩が滲みだす。分断されていると思い込んでいた世界の境界線が、実はグラデーションの帯であったと気づくのです。
 時おりJR高架の電車音が会場内を通り過ぎていく。作家自身には届かないその音が映像の「ゆらぎ」とシンクロするとき、視覚が聴覚と重なって、きこえない/きこえるの境界が消えていくように紫色の世界へとつながっていく。まさに、あわい(間)の橋を渡るような感覚に包まれるのでした。 ※関連サイト「東京ろう映画祭」→

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「東京ろう映画祭」のご案内

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【満員御礼】第3回「空耳図書館のはるやすみ」

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バックナンバー2016~2014