「ダイアログ・イン・サイレンス」に参加しました。

先日「ダイアログ・イン・サイレンス」に参加しました。2012年に参加した「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」の「暗闇」では「見えない人の世界」を疑似体験しましたが、サイレンスは「きこえない人の世界」を入り口に、日常のコミュニケーション方法や異文化交流など、目的や得られる’気づき’にもう少し幅があるプログラムだったと思います(※詳細は専用サイトをご参照ください)。
 アテンドは生まれつき耳がきこえない方ですが、最初は手話を使わずに非言語(顔の表情やボディランゲージ)でコミュニケーションを取ります。「音のない世界=言葉のない世界」ではありませんから、アテンドも参加者も言語(手話/音声)を使用しないという条件は同じです。つまり、ここで共有する「音のない世界」は「きこえる/きこえない」の’境界’にある世界です。そこでは、きこえない人の「表現力」や「伝える力」の豊かさが際立ち、参加者は彼女に導かれながら「音のない世界」を巡ります。
 例えば聴者である私が暗闇で体験したような「世界の反転」は、「音のある/なし」よりは、手話でおしゃべりする聾者の輪の中に、手話を知らずひとり参加することで得られます(経験上)。繰り返しになりますが「音のない世界で言葉の壁を越えること」と「きこえない人たちの世界を知ること」は少し違います。ただし彼等が持っているノンバーバル・コミュニケーションの力、ボディランゲージや表現力から学ぶことはとても大きい。個人的には「きこえる/きこえない」という「人の境界線」が「音のない世界」を共にすることで薄らぐプロセスこそが大切な体験なのだと思いました。
 興味深かったのは「言葉の壁を越える場」の案内板が文字(日本語/英語)で書かれていることでした。「非言語」という概念はやはり「言語」があるから生まれる。音声言語を使わなくても、ジェスチャーやサインを脳内で日本語変換して意味を解釈している自分を意識しました。プログラムも、手遊び(ジェスチャー)から手話(言語)につなぎながら「非言語⇒言語」のプロセスを辿ります。「言語の誕生」を考える場としても興味深いと思いました。多文化・多言語社会ではまた違った体験になるはずです。

 先日、アートミーツケア学会青空委員会の公募プロジェクトに採択された「聾/聴の境界をきく」の準備もあって、あらためて「非言語コミュニケーション」について日々考えています。今回のプログラムのように音声(オノマトペや声質等)の情報が無い世界では、実はかえって非言語情報(ジェスチャーや表情)を言語(意味)に結び付けて考えようとする力が働くことが、聴者としての自身の内側の面白い発見でした。また聴者が聾者の世界を理解するプログラムと考えた場合は、聴者側から「音をなくす」ことが重要な要素なのかどうか、実は今の段階ではよくわかりません。「みえない世界の体験」には確かに「闇」が圧倒的に有効な手段でしたが、「きこえない世界」はもう少し複雑だとも思いました。なぜならそれは生きている限り、ケージが無響室で発見したように私たちの体内にはきこえる/きこえない関係なく「音」が必ず存在しているからです。音は「耳」だけが「きく」ものではなく全身で感じることもできますし、今回もヘッドセットを装着した時に最初に聞こえてきたのはやはり自分の心臓の音や呼吸の音でした。ただし周辺の環境音から自身を切り離し内側へと集中すること、この場にいる全員が同じ条件下であるという公平感を持つことには有効でした。そこからさらに「音のない世界」の奥にある「聾者の世界」を知るためには、聴者側に「音のない言葉をきく」という次段階の意識が必要になると思いました(このプログラムでも、最後にそのことが少しだけ示唆されます)。

 では’本当に’言葉を排した「言葉のない対話/ノンバーバル・ダイアログ」とは何か。それは先日ご紹介した動画のように、音楽や身体表現(ダンスや舞踏)の世界では当たり前に「ある」ことは確かなのです。だからこそ、「きこえる/きこえない」を越えた「芸術の対話」を探ることにも意味があるだろうと、あらためてプロジェクトの役割も認識する体験となりました。しかし「非言語」について「言語」で説明することが本当に可能かどうか、それが最も適した方法かどうかは未知数です。(8.16 ササマユウコ)

※「ダイアログ・イン・サイレンス」は20日まで。予約は完売です。キャンセル待ちは当日の会場にて。