2021年の終わりに

NOTE『サウンドスケープとは何か〜シェーファーの耳と目から考える』

   8月に亡くなった「サウンドスケープ」提唱者でカナダの作曲家R.M.シェーファー追悼として、今年最後にこの記事を再掲します。21世紀生まれ、大学2年生の我が子に語るつもりで書きました。個人の音楽人生にも大きく影響した氏の主著『The Tuning of The World 邦題:世界の調律』を中心に、氏の生まれながらの視覚障害、知覚から紐解いています。86年の国内版はしばらく絶版でしたが、先人たちのご尽力で来月1月に再版が決定しています。

 視覚と聴覚を融合した21世紀のYoutube世代にとって、シェーファーがなぜこれほどまでに聴覚にこだわったのか。氏の個人的かつ時代的背景を知ると、オーディズムとは対極の動機で書かれたことが理解できます。著書の中ではサウンドスケープが「社会福祉」とつながることも示唆され、氏のエデュケーションには視覚障害者との対話や、想像力を養う「きこえない音をきく」課題も含まれています。この10年間の自身の実践考察も踏まえて、サウンドスケープと知覚、社会福祉の関係性は今後も「響き合う世界」をテーマに光を当てていきます。

   またシェーファーの海外の訃報記事には必ず「作曲家、作家、音環境の活動家」の順で3つの肩書きが併記されていたように、まずは世界的な現代音楽家として評価されていた芸術家としてのクリエイティビティやユーモアも大切にしたいと思います。画家を目指していたシェーファーが視覚を聴覚にシフトさせて描いた世界、全身の知覚を使った芸術のアプローチ方法にも実践的に迫っていけたらと思います。

 音楽とは何か、何がオンガクか。一生尽きることのない問いの道標として、水から生まれた『世界の調律』は矛盾を孕んだ音楽として、ここから先も時代と共に美しい旋律を残していくでしょう。未読の方はぜひ再版でシェーファーと訳者たちの熱量に触れてみてください。

Sonic Universe!(邦訳:鳴り響く森羅万象に耳を開け!)

https://note.com/connectconnect/n/n6094768b1b5b


2021年もありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いいたします。

2021年オンライン空耳図書館より
2021年オンライン空耳図書館より

芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表:ササマユウコ(音楽家)
1964年東京生まれ。3歳よりピアノを始め、10歳より楽典を学ぶ。大学在学中に欧州8ヵ国の芸術文化拠点を巡る。2011年東日本大震災を機にサウンドスケープの概念を『耳の哲学』と捉え直し、自治体市民大学、異世代アーティスト、研究者、哲学者と共に思考実験や対話の時間をつくっている。2000年代のYukoSasama名義の作品はN.Y. The Orchard社より72ヵ国で配信中。上智大学文学部教育学科(教育哲学、視聴覚教育)、弘前大学大学院今田匡彦研究室(サウンドスケープ哲学、サウンド・エデュケーション2011~2013)、町田市教育委員会生涯学習部まちだ市民大学(2011~2014)、所属:日本音楽教育学会、日本音楽即興学会、アートミーツケア学会

 

〇ワークショップ、レクチャー、哲学対話企画、執筆等のお問合せは

tegami.connect@gmail.comまでお願いいたします。


空耳図書館コレクティブ「冬至2021」の記録映像

 3月11日『春と修羅 序』、夏至のオンガク、秋分カプカプ祭りに続き、今年最後の空コレ記録です。メンバー6人の知覚をひとつにつなぎ、ひとりでは体験できない2021年冬至の時空を記録しました。4分程度ですので、是非ご覧ください。

 

〇空耳図書館コレクティブとは

「新しいオンガクのかたち」をテーマに絵本や言葉を切り口にして、異分野アーティストと研究者が自由に関わりながら思考実験や対話の時間をつくっています。

キーワード:サウンドスケープ、サウンド・エデュケーション、野口体操、音楽療法、美術、音楽社会学、哲学、即興

 

〇コア・メンバー(50音順)

新井英夫、板坂記代子、石橋鼓太郎、小日山拓也、ササマユウコ、三宅博子

 

〇この映像ヤワークショップに関するお問合せ

tegami.connectアットgmail.com (アットを記号に変えてください)

空耳図書館ディレクター ササマユウコ

 

専用Facebookではメンバーの活動を紹介しています


「オーディズム」とは何か

 現在開催中の東京国際ろう映画祭に出品されている映画『オーディズムについて対話しよう』の監督インタビューです。昨今、ろう者や聴覚(障害)をテーマにしたアートや映画作品や音楽活動が増える中で、特に聴者が知っておきたいことが1975年にアメリカで提唱された「オーディズム」という概念です。日本語に訳すと「聴力主義」。これは音・聴覚の専門家ともいえる音楽家にとっては最も遠い概念とも思えますが、だからこそ「知らなかった」ことで生まれてしまう問題があることを少しお伝えしたいと思います。

 例えば音楽の場合。「音楽には音がある、音のある音楽は素晴らしい」と考えるのが聴者の音楽家の”当たり前”だと思います。そのことには全く問題ありません。だからと言って、そもそも音がきこえない聾者に対して、彼らがそれを望んでいない場合を想定せずに「音のある音楽の素晴らしさを伝えよう」とする行為には無意識の差別の萌芽、聴力(音のある世界)を上に置く関係性の不均衡があるという考え方です。これは聴者の音をベースに「手話歌」を教えようとする関係性にも当てはまります。手話を英語に置き換え、ネイティブスピーカー(ろう者)に対して英語学習者が主導権を握っている関係性になると考えると解りやすいかもしれません。もちろんろう者は「オーディズム」によって聴者を非難している訳ではありません。聴者の世界の「当たり前」を一方的に押し付けるのではなく、まずは「音のない世界」に耳を傾けてほしい、その「対話の必要性」を訴えているのです。そこから生まれる「手話歌」や「オンガク」が大事だということです。

 「オーディズム」の存在を知ると、聴覚障害を扱った聴者からアウトプットされる”作品”や”言葉”も大きく違ってくるはずです。例えば昨日ご紹介した『サウンド・オブ・メタル』は、あくまでも「主人公=聴者の中途失聴者」の「耳」から描かれた聾文化という視点を崩さずに、想像以上に丁寧に迫っていました。この作品に与えられた2021年アカデミー賞の音響賞・編集賞は、音響技術そのものへというよりは今までにありそうで無かった「難聴者のきこえ」から音を設計したという新しい視点に与えられたのだと思います。一方で、現在展示中の『語りの複数性』(公園通りギャラリー)の中には、ろう者にとってデリケートな問題である「口話教育」を無意識に後押しするような危うさ、アンフェアな関係性に生まれる暴力性を孕んだ映像作品がありました。字幕はありましたが「鑑賞者」にろう者が想定されていたかは不明です。聴者の作家にはその意図が全く無かっただろうと思うだけに、問題提起としては面白いアートでしたが芸術体験とは別のモヤモヤが残ります。障害や異文化をテーマにした作品や活動が増えていく中で、他者理解、異文化理解としての「障害学」、倫理のまなざしから自己規制ではなく自らの表現を問う姿勢は常に持っていたいと思うのでした。それは高齢化が進み様々な”障害”を抱えた身体や知覚が社会に増えていく中で、芸術活動に限らず日常的に問われていくでしょう。

  私がこの問題を意識するようになったのは、ここ数年「サウンドスケープの概念は差別的」という言説を、特に若い世代に見かけるようになったからです。もともと音楽の内側で生まれた概念とは言え、確かにシェーファーの言説は聴覚に偏りすぎ、音楽/聴力至上主義的な印象があります。私自身は東日本大震災時に自身のオンガクを見失った時、氏の力強い言葉がアイデンティティを支える上で大変励みになりました。なぜなら音のある音楽を聴くこと、演奏することは私の人生そのものだからです。

 しかし一方で2016年の映画『LISTEN リッスン』監督たちと対話を続ける中で、音・聴力だけを主張する世界からは弾かれてしまう人がいること、また知覚(きく)は個体差が大きく、特に聴覚器官(きく)は耳だけではないということに気づいたことがきっかけで自分の中の「何か」が変わりました。何より「音のない世界」は常に音のある世界の傍らにあることに気づいたからです。だからこそ、それぞれの世界が共に響き合うような豊かな関係性を丁寧に模索していけたらと思います。

 このあたりは先日のNOTEで「シェーファーの耳と目」からもお話しています。氏の視覚には生まれながらに障害があり、美術(視覚)から音楽(聴覚)へと世界の軸を移さねばならなかったシェーファー自身の知覚、世界の捉え方を紐解くことから「サウンドスケープとは何か」を改めて考えて頂けると思います。差別主義ではないこともお分かりいただけると思いますし、オーディズムを考える上でもご一読頂けると幸いです。

 

〇サウンドスケープとは何か~シェーファーの目と耳」

https://note.com/connectconnect/n/n6094768b1b5b


筆者:ササマユウコ(音楽家・芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表)

1964年東京生まれ。映画、出版、劇場の仕事を経て2000年代にレーベル発足。YukoSasama名義でN.Y.から72各国で配信中。東日本大震災を機にサウンドスケープを「耳の哲学」と捉え直して研究者やアーティスト共に思考実験、対話の時間をつくっている。上智大学(視聴覚教育、教育哲学)卒、弘前大学大学院今田匡彦研究室、まちだ市民大学、アートミーツケア学会、日本音楽教育学会、日本音楽即興学会会員。
空耳図書館、即興カフェ、聾CODA聴プロデュース。

「サウンドスケープとは何か」東京芸術劇場社会共生セミナー要約

  9月18日に開催された東京芸術劇場社会共生セミナー『もし世界中の人がろう者だったら、どんなかたちの音楽が生まれていた?』(登壇:牧原依里、雫境、ササマユウコ)の冒頭で、ササマユウコのレクチャー「サウンドスケープとは何か」を要約しました。今回は、8月に亡くなったシェーファーの知覚に焦点をあてた新しい視点を加えてお話しましたので、ろう者・聴者、また音楽関係者に限らず「生きるための知恵」として発明されたサウンドスケープという言葉の意味について考える機会にして頂ければ幸いです。
こちらからご一読ください。

 

●本文内容についてのお問合せもこちらからお気軽にどうぞ。

【耳の哲学】ショパン国際ピアノコンクール2021をきく~オンガクとは何か

 昨年から1年の延期を経て、10月初旬から約1か月に渡ってワルシャワで開催されたショパン国際ピアノコンクール。日本国内からの本選出場者は14名となり、その中で反田恭平さん(2位)、小林愛実さん(4位)がW受賞、人気Youtuber角野隼斗さんが三次予選まで進出するなど話題になりました。また1年延期されたことで各国出場者も魅力的なショパンを提示し、結果的に大変充実したコンクールとなりました。
 さらに今回はコロナ禍での開催ということで、7月の予備予選からすべてのコンテスタントたちの演奏がYoutubeで無料配信されるというパラダイムシフトがありました。これによって普段はクラシック音楽を聴かない層にも視聴者を広げ、コンクールそのものが世界各国で注目を集めました。

 今回コネクトでは第二次予選から全てのコンテスタントの演奏をなるべくライブで視聴し考察をしてみました。筆者(音楽家・ササマユウコ)は音大卒ではありませんが、3歳からピアノをはじめ、10歳で専門教育に移り、11歳の時にショパンで出場した某コンクールで最高位を頂いた経験があります。また20代の頃にヤマハの『ピアノの本』編集部にも所属しました。クラシックはもはや門外漢ですので演奏そのものの批評は避けますが、今回は「耳の哲学」の「問い」としてコンクールそのものを「きく」こと、そして考えてみようと思いました。

 三次予選までに独自の基準で13名を選出し、そのうちの9名がファイナリストに、結果的に8名全員が入賞者となりました(予想順位は若干違いました)。今回の審査基準と自分の感覚にブレが少ないと感じましたので、ここで選ばれた「オンガク」とは何だったのか、ショパンを演奏するとは、ショパンとは何なのかをサウンドスケープの視点、耳の哲学から考察し紐解いてみました。

 ピアノを弾く人/弾かない人、音楽や芸術を越えて、生きることを考える内容だと感じていますので、是非ご一読頂けますと幸いです。


●ショパン国際ピアノコンクール2021

サウンドスケープの視点、耳の哲学からの考察です。

どうぞこちらからご覧ください→


【考察レポ・後編】東京芸術劇場ボンクリ「音のない”オンガク”の部屋」

水の波紋を「目できく」ように音楽にした。マリー・シェーファー「miniwanka」エンディングより。
水の波紋を「目できく」ように音楽にした。マリー・シェーファー「miniwanka」エンディングより。

●前編 舞台の鑑賞レポはこちらから→ 
 この
後編では共同演出の雫境さん、無音の”オンガク”映像も担当した牧原依里さんそれぞれに「アーティストの視点」から、筆者が用意した質問にメールで答えて頂きました。何度かやりとりが生じた舞台に関する質問は、雫境さんの欄にまとめています。あらかじめご了承ください。


ボンクリ「音のない”オンガク”の部屋」

「はじまりについて」
出演:佐沢静枝、那須映里、西脇将伍

共同演出:雫境、牧原依里

主催:文化庁、公益財団法人東京都歴史文化財団

企画制作:国益財団法人東京都歴史文化財団東京芸術劇場
ボンクリ・フェス2021 Born Creative Festival 2021

対話の時間

雫境さんへの質問

質問①この作品をつくるにあたってオンガクの「楽譜」にあたるものは作成しましたか?

 出演者と「聾者の”オンガク”の歴史」をイメージして共有し、全体のシーンの流れをつくりました。
 具体的には以下の通りです。
・シーン:椅子に座った人、足で床を鳴らす
 ①振動やリズム(人を呼ぶ、肩をたたくなど)

 ②指差し(意味になる行為、言語以前)

 ③言語誕生「手話」で会話をする 

 ④サインポエム(牧原さんの映像からイメージ。映像内容は雨、水たまりの水紋、街など)

 ⑤言語から非言語へ 

 ⑥ミニマム

 ⑦原初的(根源的)

・シーン:椅子に座り、沈黙。
※⑥の「ミニマム」とは、非言語の手話からさらに意味を削ぎ落し、パラドック的にさまざまな解釈が生まれるような動きのこと。

 

質問②声質にあたる「手質」で出演者を選んだということで、どのような「質感」を大切にしましたか?

 ネイティブサイナー(日本手話が第一言語)であることと、手話、顔などの動き方と”素材”に魅力的なものがある人です。また”オンガク”の理解度が高そうな感じ/雰囲気の人にお願いしました。トークで話した「間/ま」については練習すれば出来ると思っていたので、初めから出来る人に限定したわけではありません。

 

質問③今回は身体性や関係性にフォーカスしたり、風景を身体で写し取るオンガクでしたが、ここから例えば「光」「色」などの外的/美術的/視覚的な要素が増えていくのか、それともさらに身体の内側に向かうようなオンガクになるのか。どちらだと感じましたか?(現時点で)
 
今回は身体の純粋性をみせようと考えました。総合芸術的に考えると、照明、舞台美術を練りこんだり、反対に裸舞台(何もない舞台)で勝負したり、今後は観客にみせることを意識する/しないの両方のが出てくると思います。自分の内側/外側に向かうオンガクの「ベクトルのバランス」が重要になってくるのではと感じます。

 

質問④雨や水のイメージがあったのは、事前のオンライン対話でサウンドスケープの原点が「水」にあるという話から生まれたのか、それともすでに対話以前からあったイメージでしょうか?どちらにしても前日の台風の大雨の記憶、リアルな世界とオンガクがリンクする偶然の面白さを感じました。この作品のテーマに「水」がありましたか?

 稽古の前にテーマやイメージは特に決めずに、「台本」的なものも用意していませんでした。創作・稽古中に出演者がその時に身近に感じていることから取り組んだ方がやりやすいかなと思って進めていく中で、外が曇りだったり雨だったり、、そういう心情が自然に出てきただけです。ましてや前日に台風が来るとは思わなかった(笑)。
 5年前のアップリンクで田口ランディさんとのトークでも水の循環について話したし、それよりも前に舞踏訓練でもよく課題にしていました。人体の60%は水で出来ていると言いますし。水は共振しやすい性質を持つから、人間もそうなのかもしれないと思っています。いつか観たいのがタルコフスキーの『惑星ソラリス』で、海のイメージが気になっています。関係あるのかは観てみないとわかりませんが(笑)。

 

質問⑤肩をたたくオンガクについて、もう少し詳しく。あのシーンは即興ということで、午前と午後で変化はありましたか?

 少しのきっかけと動作、方向性などは決めましたが、即興がメインでした。関係性のリアルを大事にしつつ、その「緊張や弛緩」、緩急、強弱などでオンガク性と質を高めていこうと考えました。午前の方が緊張感が高く、午後は慣れてきたこともあって、方式のように固まりそうな感じがあったかもしれません。もし3回以上やったら『出来上がりつつある型を一旦忘れて』とダメ出ししたかもしれません。

 

質問⑥緊張と弛緩は、松崎丈(宮城教育大学)さんが論文で書かれていましたが、聾者が電線のメリハリにオンガクを感じるのとも通じますし、音のある音楽だと旋律やリズムそのものの緩急と共に音と音のあいだに生まれる「余白」の質感かなと思います。聾者/聴者ともに「余白」は奏でられますね。

 「余白」は私個人的に一番好きなオンガクです!舞踏の影響もあるけれど。でもその「余白」の前後が無ければ難しいです。何もないところから突然「余白」が出せるような表現が欲しいし、出せる人がいたらひれ伏します(笑)。

 ※牧原さん 「余白の美しさ、まさにそうですね。沈黙のためにオンガク/音楽があるといっても過言ではないです」。

 

質問⑦音のない”オンガク”の「終わり方」について。聾者が「終わり/沈黙」を感じるのは「身体の動きが止まった時」「光が消えた時」のどちらでしょう(今回の場合)。

 聾者の場合、個人的な感性によって違うと思います。身体を止めてオンガクを終わらせることは、高い技術がないと難しいです。身体の動きを止めた後が問題で、どう所作していくかによって止まった身体の意味が変わります。「光が消える」のはわかりやすいので万人受けではあります。フェードアウトしながら重低音が鳴り響いていたら、聾者は「オンガクの終わり」が感じやすいと思います。


・牧原依里さんへの質問

(無音のオンガク)の映像と舞台制作の違いも含めて感想や補足解説をお願いします。

 映像と生身のパフォーマンスですが、出演者によってどちらが得意かは分かれる印象でした。映像の方がオンガクが伝わる人、舞台の方が伝わる人がいました。手の動き方が限定的な人は映像向き、体幹がしっかりしてブレが少ない人は舞台向き。それぞれの身体の使い方やあり方が(オンガクに)影響を及ぼしているように思いました。
 映像では映像言語も加わり、編集によって生まれるオンガクもあります。舞台ではそれができないので、場面の切り替えをどうするかが難しかったです。舞台に慣れている雫境さんがいろいろと提案してくださって、どうにか乗り切ることが出来ました。舞台だと照明で場面切り替えもできたと思いますが、今回は(会場がギャラリーで)照明が使えなかったのもあり、主に演者の身体メインで考えました。


筆者まとめ(聴者・音楽家)

「音」と「光」、「きく」と「みる」
 前述の質問⑦に対して、雫境さんが「音のないオンガク」の終わり方で提示した「光をフェードアウトしながら重低音を鳴り響かせる(=空気をふるわせる)」感覚は、聴者にとっては「音を徐々に小さくして終わらせる」感覚だと思います。ですから「暗闇で重低音が鳴り響く」世界の印象を聴者の文化に引き寄せて感じ取ると、聾者の制作意図とは正反対の受け止め方になる可能性があります。前回もお話したように、目の前で起きている現象は同じでも聾者と聴者ではそもそもの動機や意図が違う場合があるのです。
 聾者の文化にとって「光」は「音」のような役割もあります。彼らの舞台では演出上の照明効果だけでなく、前編でご紹介した足で床を踏み鳴らす「ふるえ」のように、光が「合図/きっかけ」にも使われるのです。近年では「ライトの明滅」が開演ベルとして使われることも珍しくありません。スポットライトやペンライト等の「光」は聾者の舞台にとっては「マイク/声の替わり」です。聾者の「知覚(世界の捉え方)」を知り、彼らに合わせた環境を整えることも共生の視点からは大事なことです。ただし完璧な環境や条件が良い作品を生むとも限らないのが芸術の面白さ、また奥深さでもあります。今回は照明の使えないギャラリーに舞台を設置したことで、作り手も受け手も聾者の身体と向き合わざるを得ない状況になりました。そして結果的に雫境さんの舞踏家としての経験値が活かされ、牧原さんの映像に触発された「はじまりのオンガク」にふさわしい身体の内側から引き出された作品となりました。
 本来は日本手話の文法やろう文化を正しく理解することが理想的ですが、これは「解釈/反解釈」という芸術批評の根本にも関わるので難しい問題です。このオンガクが何を目的に作られ、作者が何を意図したかによって鑑賞方法が違ってくる。今回は雫境さんが質問①の中で「ミニマム=さまざまな解釈ができるように」演出されたということで、このオンガクが「芸術の時間」だということがわかります。作品には先入観を持たずに、まっさらな心で「きく」態度が求められているのです。そこから「光」の例のような異文化理解や社会共生という「次の視点」が結果的に見えてくる。芸術が先か、社会が先か。今回の場合は、雫境さんと牧原さんはオンガクそのものに純粋に集中する方向をとりました。

 

「音のない”オンガク”」を「きく」ということ
 いずれにしても、聴者の現代音楽フェス「ボンクリ」に聾者のオンガクが提示されたことの意義はとても大きいと感じています。音楽史の文脈としても、また社会共生を考える上でも、彼らの小さなオンガクが投げかけた「問い」は様々に波紋をひろげ、オンガクそのものの世界を静かに震わせ、そして拡張していくでしょう。
 聴者のすぐ傍らにある聾者の世界はいつでも豊かに鳴り響いています。音に特化した「聴者の音楽」は彼らの世界から最も遠い存在と感じるかもしれませんが、両者の世界もまた響き合っているのです。音のない”オンガク”が「きこえる」か否かは、実は聾者/聴者であることとは違う次元の話かもしれません。大切なのは「音楽とはこうである」という思い込みを捨てて、目の前で鳴り響いている聾者の身体のオンガクを「目できく、耳でみる」こと。知覚を捉え直し、全身をひらいて「水」のように響き合うことが出来るかどうかです。
 先日のオンラインセミナーでもお話しましたが、8歳で片方の目を失い10代で画家の道を諦めたカナダの作曲家R.M.シェーファーは、自分の知覚が発見した”鳴り響く森羅万象”に「サウンド(きく)スケープ(みる)」という名前を付けました。それはいつも身近にあったカナダの湖、「水」から生まれたとシェーファーは記しています。本文の冒頭にある楽譜は水の波紋のように終わる(広がる)シェーファーの初期のオンガクです。彼は耳で絵を描くように楽譜を書き、響き合う世界を音に変え、社会にもつながる音楽家としての生涯を全うしました。
 今回の「音のない”オンガク”」は、聾者が身体性をウチに掘り下げて提示した世界です。ここからこの世界に「光」や「色」といった外側の要素が加わるのか、何もない舞台のままさらに身体性が掘り下げられていくのか。このウチとソトをめぐる思考のプロセスは、聾/聴を越えてすべての芸術に共通する本質的なテーマだと思います。芸術と社会、その作品の根幹を読み解くことが大切です。


筆者:ササマユウコ(音楽家・コネクト代表)
1964年東京生まれ。東日本大震災を機にサウンドスケープを耳の哲学として、「音楽とは何か」を問う活動を展開中。「聾CODA聴 対話の時間」「即興カフェ」「空耳図書館のおんがくしつ」プロデュースなど。町田市生涯学習部まちだ市民大学企画・運営(2011~2014)、芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表(2014~)。都立国立高校、上智大学文学部教育学科卒、弘前大学大学院今田匡彦研究室サウンドスケープ研究(2011~2013)。2000年代の作品はN.Y.より72ヵ国で配信中。


【鑑賞レポ・前編】東京芸術劇場ボンクリ『音のない”オンガク”の部屋』

 1か月以上にわたる緊急事態宣言が9月末に解除された東京。その最初の週末だった10月2日(土)の東京芸術劇場では、今年で五回目となる現代音楽の祭典ボンクリが開催されました。
 そのプログラムの中で上演されたパフォーマンス「音のない”オンガク”の部屋」は、先月18日にオンライン開催された社会共生セミナー・トークセッションもし世界中の人がろう者だったら、どんな形のオンガクが生まれた?(登壇:牧原依里、雫境、ササマユウコ)の関連企画でしたので、ここでは聴者(ササマユウコ)から捉えた「聾者のオンガク」について前半は感想を交えて、後半では演出した雫境さん、牧原依里さんへのメール・インタビューの内容をご紹介していきます。
また、9月18日のトークセッション関連記事はこちらからご覧ください。
 ※尚、公共の場では「ろう者」と表記されますが、個人的に「聾」の字が好きなのでこちらを使用します。ご了承ください。


はじまりについて【鑑賞レポ・前編】

出演:佐沢静枝、那須映里、西脇将伍  共同演出:雫境、牧原依里
耳から入る音そのものの存在を知らない部屋です。
 耳で世界を捉える人が多数という中で、音楽は耳だけではなく、目や皮膚、骨、内臓などの身体にも影響しています。この部屋では「見る」だけで音楽のようなものを感じてみて下さい。

※出演者はネイティブ・サイナー(手話が第一言語)で、声質ならぬ「手質」の魅力で選ばれたそうです。

鳴り響くオンガク

 「音のない”オンガク”の部屋」は、聾者たちが舞台の床を激しく踏み鳴らす「足音」から始まりました。といっても彼らの世界には「音」がありませんから、床をふるわせた先にたまたま「音」が生まれたのです。聴者が「音を鳴らすために」床を踏むのとは身体の動機が違う。しかし両者の世界は同じように鳴り響くので、聴者は聾者のオンガクも「同じだ」と早合点をしがちです。
 ここで忘れてならないのは、彼らの世界には「音がない」ということです。そのことを常に想像しないと聾者のオンガクはきこえてこないかもしれません。
聴者が声を出すように、聾者は身体で世界に触れ、そして震わせます。誰かを振りむかせるために肩をたたき、机をたたき、床を踏み鳴らす。作品の各シーンに散りばめられた身体行為には、聾文化ならではの「意味」があるのです。

 それが「オンガク」として提示される時、行為からはあえて「意味」がそぎ落とされ、ひとつの「音」のように扱われていきます。三人のパフォーマーたちの関係性の変化、手が描く「線」のメロディ、「間」が生むリズム等が、ある時は即興的な時間と空間の中で紡ぎだされていく。聴者は「目できく」ように自らの知覚を捉え直して、そのオンガクを感じ取るのです。
 例えばクラシック音楽の”知識”のように、聾者が使う日本手話の「文法」を知っている方がオンガクをより深く楽しめるだろうと思います。一方で何も知らなくても、聾者が「オンガク」として提示する時間や空間を「きく」こと、感じ取ることはもちろん可能です。音楽とはこうである、という思い込みをはずし、異文化を理解する意識を持てばいいのです。
 聴者の現代音楽には「音や声の集合体(音楽作品)」を「音/声」そのものに解体し、再構築するアプローチがあります。この「音のない”オンガク”の部屋」で繰り広げられたオンガクも、同じような現代音楽的な発想がありました。聾者のオンガクと言えば「手話で歌うこと」を想像しがちな聴者にとって、これは予想外のパフォーマンスだったのではないでしょうか。
 今回の共同演出・雫境さん、牧原依里さんは聾者のオンガクを問う映画『LISTEN リッスン』の共同監督です。この映画の中で聴者にとっては一見「ダンス」に見える身体行為が、実は日本手話やその文法、さらにそこから意味を削ぎ落した「非言語の手話」で構成されている場面があります。しかし、たとえそのことを知らなくても、聾/聴を越えた鼓動や呼吸のリズム、喜怒哀楽といった身体の内側のオンガク、他者との関係性のメリハリに宿る外側のオンガクとして感じ取ることもできます。このことは、聴者は音楽(音のあるオンガク)の「何を」聴いているのか?という問いにもつながります。

 ちなみに雫境さんは2019年の秋、このパフォーマンスの前身ともいえる作品『鳴りや止みそうにない』をスタジオ「濃淡の間」で発表しています。四方が闇に囲まれた小さな空間の中で「足音」から始まるその非言語的な時間と空間は、ダンスや舞踏のロジックとも明らかに違う。その時は難解な印象がありましたが、今は「目できく」オンガクとして受け止める作品だったのだと思います。
以下は
パンフレットより抜粋(雫境さん記)・・・・

 『鳴り止みそうにない』の「鳴り」は、音的な要素が強く感じられるでしょう。けれども、私は音の概念、イメージがよくわからないのです。音でもない別の身体的な感覚で「鳴る」というものがあります。それは鎮められない怒り、ひざまずいてしまいたいぐらいの悲しみ、お腹を抱え込むような笑い、続けて欲しい心地よさなど、高低を孕んだ、音なき感情的な起伏の持続というのが私の感覚です。この『鳴り止みそうにない』は、言葉なきコトバを探す身体表現を目指す、記念すべき船出としての濃淡の作品です。人間のさまざまな意味と無意味の動作を一瞬の時間を長く伸ばしたり、一連のどれかを切り取って繋げたりしてみました。そこから何が見えるでしょうか。目の前で起こっているひと時を楽しんでいただければ幸いです。」


肩をたたくオンガク

(C)2/FaithCompany @東京芸術劇場ギャラリー2
(C)2/FaithCompany @東京芸術劇場ギャラリー2

 以上の背景を知った上で、あらためてこの作品で印象的だった「肩をたたくオンガク」をきいてみましょう。
 聾者にとって「肩をたたく」ことは、前述の通り相手を呼ぶ(ふりむかせる、自分の存在を認知させる)目的で、聴者の「声で相手(の名前)を呼ぶ」行為にあたります。この「はじまりについて」では3名のパフォーマーが
お互いの名前を呼び合うように和やかに「肩をたたく/たたかれる」シーンから始まります。それが徐々に「手の質感」が変わることで、3人の関係性も「弛緩(メリ)と緊張(ハリ)」を生みながら変化していきます。時にはハラハラするほどに張りつめた緊張状態も生まれていました。
 しかしそこに「ストーリー」はありません。この時間がどのように進んでいくのか、どこへ向かうのか、いつ終わるのか読み解けない。意味が削ぎ落された「肩をたたく/たたかれる」関係性だけの行為が、いつしか純粋な「ふるえ」や「皮膚感覚」のやりとりへと昇華されて、この時に初めて聾者のオンガクがきこえてくるのです。この即興的で先の読めないどこかスリリングな時間の質感は、演奏する身体の記憶、即興で音をやりとりするセッションと通じるものでした。


水のオンガク/風景のオンガク

2017年「聾CODA聴 境界ワークショップ研究会」より。雫境さんの水の映像を使ったプログラム(2017アートミーツケア学会青空委員会公募プロジェクト)
2017年「聾CODA聴 境界ワークショップ研究会」より。雫境さんの水の映像を使ったプログラム(2017アートミーツケア学会青空委員会公募プロジェクト)

一方で、体感的に「きこえてきた」のが自然現象や風景を写し取ったオンガクでした。舞台終了後に投影された牧原さんの無音の映像オンガクも含め、聾者が「目できく」ように捉える水や雨の様子は、この世界に生きる誰もが内側に刻んでいる共通のオンガクです。 

 走る電車内の聾者の「目と手」が流れる車窓の風景を切り取り、連続するリズムとして繰り返す時、電車の音やリズムで作られたミニマルミュージックと共通するオンガクを感じました。したたり落ちる雨粒、だんだん激しくなる横殴りの雨、、表情豊かな「手」の質感そのものにオンガクを感じる時は、美しい音を「奏でる手」のイメージが重なっていきました。

 偶然だったということですが、激しい雨のイメージは舞台前日に台風が降らせた豪雨の記憶と重なり、聾者も聴者も同じ世界をそれぞれの方法で知覚しながら生きていることを実感しました。先日のオンライントークでもご紹介しましたが、シェーファーは「水」のイメージから(きく・みる)をつなぐ独自の知覚の捉え直しをして、鳴り響く世界に「サウンドスケープ」という名前をつけました。

 雨粒が同時多発的に世界に波紋を広げ響き合っているように、聾者の音のない世界も鳴り響きながら波紋を広げている。その世界は聴者の耳にはきこえませんが「音のないオンガク」として「目できく」知覚をひらいた時に、聾者と聴者の世界はお互いに響き合っていると気づくのです。


【告知】この舞台制作のプロセスを追ったドキュメンタリーが10月23日(土)夜8時45分~9時まで、NHK Eテレ「ろうを生きる 難聴を生きる 音のないオンガク会」※字幕スーパーにて放映されます。ろう者の世界の捉え方、身体性や知覚に触れながら、音のある/ないを越えてオンガクを問う場、この世界の多様性を考える場として是非ご覧頂ければ幸いです。
 この作品はオンガクのみならず、身体芸術、福祉、社会共生等、様々な視点から考えることが出来ます。何より
聴者の現代音楽フェスに「ろう者の”オンガク”」が提示されたことは聴者の音楽の世界を拡張しただけでなく、そもそも「聾者」の存在を一度でも意識したことがあったか?という音楽人たちへの問いかけにもなります。もちろんそれは決して「音のあるオンガク」を否定するものではありません。聾者のオンガクが聴者の音楽のすぐ隣に存在して、響き合っていることに気づくことの意義は、自分たちの音楽ロジックに聾者を引き込むのではなく、彼らのオンガクを真摯に「きく」姿勢が生まれることにあります。
 聴者が主導する「手話歌」がしばしば物議を醸す理由もここにあります。マジョリティ/マイノリティの意識、両者のパワーバランス、何より日本手話や聾文化へのリスペクトがあったかどうか。そして聴者は全身の感覚をひらいて、彼らのオンガクを「目できく」知覚を持っていたかどうか。
 それは同時に「私たちはオンガクの”何を”きいているのか、それは音なのか?」という問いを生む姿勢にもつながっていくのでした。


東京芸術劇場社会共生セミナー質問回答②「聾者のオンガクと聴者の音楽の決定的な違いはなんだと思いますか?」

 先日登壇した東京芸術劇場の社会共生セミナー「もし世界中の人がろう者だったら、どんな形の音楽が生まれた?」の関連企画として、昨日ボンクリフェス「音のないオンガクの部屋」が開催されました。非常に興味深い内容でしたのでステージの内容については別途レポしたいと思います。以下の質問回答はパフォーマンス後の牧原依里さん、雫境さんトーク内容とも近い質問でしたので、Noteと同内容のものをこちらでも回答いたします。
 劇場よりセミナー後に回収されたアンケートも頂きました。回収率が高く、また聾者/聴者を越えて皆さん集中してご視聴頂けた様子が伝わってきました。今回は私自身の10年の活動を初めて言語化し、8月に亡くなったシェーファーの「目と耳」からサウンドスケープの知覚、世界の捉え方をお伝えして、おふたりのお話へとつなげました。皆さんのイメージも沸きやすかったようで、感想を頂きほっとしました。私自身もここからまた10年?新たな展開が始まる予感がしています。

 アンケートでは「もっと聴きたかった」という感想も多く頂きました(2時間ありましたが。。)。映画『LISTENリッスン』公開から5年間、本当に話題が尽きることなく音楽/オンガク対話が続いています。また3人で対話する機会はどこかであると思いますので、引き続きご注目いただければ幸いです。


先日の質問回答シリーズ第2弾です。

「聾者のオンガクと聴者の音楽の決定的な違いはなんだと思いますか?」
 この質問を下さった方がろう者なのか、聴者なのか。質問者が属するコミュニティによって視点が変わってくるのかなと思いました。しかもこれは相当な難問です。なぜなら前回もお話したように、そもそも「音楽とは何か」という問いには正解がなく、オンガクの「何に」視点を置くかで複数の回答が得られるからです。

 聾者のオンガク/聴者の音楽を「音の有無」で簡単に線引きができないのは、聴者の中にも音のないオンガクを作る人もいますし、聾者の中にも音のある音楽を手話で歌う方がいるからです。先日のトークセッションのように、音のある/ない、聾/聴を越えて共に考えることができるオンガク概念も存在します。

 例えばこの質問者が音をきいたことがない「聾者」だった場合、その方が考える「オンガク」が、音の芸術だけを音楽と考える聴者よりも、古来の哲学者や天文学者たちが考えた「オンガク」に近い世界観を持っている可能性もあります。なぜなら彼らは星空が響き合う「宇宙の音楽(ムジカムンダーナ)」を耳以外できいて真理を追究したからです。そこには物理的な「音」はありませんでした。反対に質問者が聴者の場合は、「音がないオンガクとは何か」を問う質問だった可能性もあります。

 これらの前提を踏まえて、聾者と聴者の「決定的な違い」がひとつだけあるとしたら、それは「音楽」ではなく「言語」だとお答えします。この場合の「聾者」の定義とは、音がない世界に生き、手話(日本手話)を第一言語とした文化圏に生きる人たちです。ですから例えば中途失聴で音や音楽の記憶がある方、また第一言語の音声に対応する日本語対応手話を後天的に取得した方のオンガクは、もともとの「聴者の音楽」の文化圏に入るだろうと思います。さらに、手話を第一言語として学んだCODA(聾者の両親に育てられた聴者)の方は、バイリンガル的に聾者と聴者のオンガクを内在しているだろうと思います。

  言語が違うということは、当然そこから生まれる「ウタ」が違ってきます。声で歌うか、手で歌うのか。身体に染み込んでいる言語が違うわけですから、そこから生まれるオンガク(声質/手質、リズム、旋律、ハーモニー、時間・空間など)が違うことは想像に難くありません。アカデミズムの世界でも研究が進んでいるようですが、私は言語学や人類学の専門家ではありませんので、ここでは自分の体験からお答えします。例えば聴者の場合、日本語の歌を英語に訳した時、音の旋律に英語がうまく乗らないことがあります。その逆もあります。また聴者が声で歌いながら日本語対応手話を使う手話歌が、日本手話を使う聾者にとって違和感があるというお話もよくききます。音楽よりも異言語交流としての問題ですが、言語の文法やリズムやイントネーションと音楽が密接に関わり合っていることはよくわかります。そしてこれこそが、聾者と聴者のオンガクの違いを考える時に欠かせない視点だと思います。お互いの言語、つまり文化が違うのです。

 「話す」と「歌う」はそもそもひとつだったとも言われています。野鳥のシジュウカラが「話す」と考えるのが言語学、「歌う」と考えるのが音楽学の視点です。どちらが先だったのか、実はその謎もまだ解き明かされていません。ただ、歌うと話すのどちらが先だったにしても、はじまりには「声」も「手話」もあっただろうと想像します。そこには「伝える」「表現する」という目的があったからです。

 それがいつからか「話す」と「歌う」が分かれ、「音声」と「手話」が分かれ、西洋のアリストテレスが提唱したと言われる「五感」という言葉とともに各感覚器官が知覚を専門的に担う発想に分かれていきます。耳はきく、目はみるというように。そしてここで注意したいのは、五感が独立して作用している状態を「健常」と捉えると「障害」という発想につながるということです。しかし実際には知覚は個人差が大きく、目できく、耳で見るような捉え方も当たり前に起きています。私たちの体内ではそれぞれの感覚器官が響き合うように知覚が働いていると考えると、耳を使わない聾者と聴者ではオンガクの「きき方」も違うということは想像できます。

 聴者が「音/耳」だけを専門的に扱う芸術として「音楽」を特権的に発展させてきたのは、人類誕生20万年の歴史を俯瞰すると特殊な歴史です。特にイヤフォン(音)を耳の中に入れて「きく」ようになってから半世紀も経っていません。「音楽」を持ち歩く発想は音楽の形を変えた音響技術の大発明であると同時に、耳以外で空気の鳴り響きを感じる機会を奪ってしまいました。一方で、イヤフォンで音楽をききながら、時には歩きながら、電車に乗りながら世界を「みる」体験が生まれ、聾者のように「目できく」知覚に気づいた聴者も少なくないと思います。

 芸術のはじまりが二万年前の洞窟の中だったとしたら、そこには壁画だけでなく声/音も身体表現も同時に存在したと考えるのが自然です。そもそも「耳だけ」でオンガクをきく発想は無かったはずなのです。さらにその前の18万年近くは、人間と音の関係性、世界は未だに謎だらけです。洞窟を「子宮回帰」の象徴としてみると、羊水に浮かぶ胎児だった頃の記憶、耳以外の感覚器官や皮膚感覚、内臓感覚をフル活用した全身の知覚が呼び覚まされます。そこには本来の「きく」とは何かを考えるヒントもあります。最新の研究では人間の感覚は5つではなく22も発見されているそうですから、やはり現代人は「五感」という言葉に縛られすぎている。特に「きく」は耳から解放されて、ふたたび全身の知覚へと戻ろうとするのかもしれません。なぜなら聴者は歳を重ねるとともに「聴力/きこえ」が衰えていくのが自然だからです。

 つまりオンガクとは「音だけの表現」ではなく、全身の「きく」という知覚を扱う/刺激する芸術だと捉え直してみるのです。「目できく、耳でみる」ような世界との関わり直しが、オンガクの世界そのものを豊かに広げていきます。音を扱った聴者のオンガクにも「きく」より「みる」が刺激されるもの、音のない聾者のオンガクにも「きく」を刺激される作品があることにも気づきます。口に入れた氷、頬に当たる風、電線のたわみ、波の満ち引き、雨のリズム、自身のウチとソト、森羅万象にオンガクを発見します。聾者のオンガクも目や皮膚や内臓からきこえてきます。

 

 最後にフランスの哲学者ミケル・デュフレンヌの『眼と耳』(みすず書房)より、以下の言葉をお伝えします。

「聴覚の起源が、水中という環境での、圧力の振動に対する魚の皮膚感覚であるのと同様、視覚の起源は、光の振動に対する生体の皮膚感覚であり、次いで、光を受けた物体によって送り返される光の反射に対する生体の皮膚感覚にある~中略~視覚は聴覚のコピーである」

※ミケル・デュフレンヌはメルロ・ポンティ「知覚の現象学」の流れにあります。しかしフッサールから始まる現象学やM.シェーファーのサウンドスケープ論も含め、20世紀にはまだ障害学や社会福祉という概念が確立されておらず、現代の感覚ではしばしば「差別的」な表現も見受けられます。この時代的な背景を踏まえつつ、視覚や聴覚を捉え直し、身体や知覚から世界と関わり直そうとした先駆的な試みと受け止めてください。音楽を問い考える「耳の哲学」では21世紀に相応しい言語感覚や社会的意識に置き換えてご紹介していきます。

バナー写真は (C)2019聾CODA聴「対話の時間」(雫境、米内山陽子、ササマユウコ)より  アーツ千代田3331にて(撮影:牧原依里)


執筆:ササマユウコ

(音楽家・芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表)

2011年の東日本大震災を機に、サウンドスケープを「耳の哲学」として、異分野アーティスト、研究者、哲学者、音楽療法士等とともに「音楽とは何か」を問う対話の時間や思考実験の場をつくっている。2000年代の6作品はNYより72ヵ国で配信中。

聾CODA聴対話の時間、空耳図書館のおんがくしつ、即興カフェ、映像作品「空耳散歩」等。

東京芸術劇場社会共生セミナーでのご質問にお答えします。

(C)R.Murry Schafer and the Vancouver Chamber Choir
(C)R.Murry Schafer and the Vancouver Chamber Choir

 台風が心配されましたが、先週18日には無事に「東京芸術劇場共生社会セミナー もし世界中の人がろう者だったら、どんな形の音楽が生まれていた?」(登壇者:牧原依里、雫境、ササマユウコ)が開催されました。音のある/ない世界を越えて定員を超えた多くの皆さまにご参加頂けたこと、心より感謝申し上げます。オンライン画面には手話通訳、UDトーク(文字情報)も入り、コロナ以降に出現したオンラインの「時間と空間」に不慣れな私は、若いスタッフや牧原さんにもずいぶん助けて頂きました(まさに共生です)。

 2016年の映画『LISTEN リッスン』公開時のトークをきっかけに、「音楽/オンガクを問う」お二人との対話の時間はもう5年も続いています。毎回話題に尽きないのは、おふたりが常に「音楽/オンガクとは何か」を真摯に考えているからですし、今回も2時間が足りないほど豊かな内容となりました。最後に参加者の皆さまからたくさんのご質問を頂きましたが、今回はその中で私(ササマユウコ)に頂いたものをまとめてこちらで回答しています。基本的に音のない世界に向けてのお話です。

 「目できく、耳でみる」知覚の捉え直しや、「サウンドスケープ」と名付けられた響き合う世界との関わりは、言葉だけではなかなか説明が難しいものです。本文最後にご紹介した「東京アートにエールを!」公開の映像作品「空耳散歩 LISTEN THINK IMAGINE」も、是非あわせてご覧頂けましたら幸いです。

 また他の質問につきましても「音楽」の根本を問う興味深い内容が多かったので、あらためて考え別途記していきたいと思っています。引き続き、ご注目頂けましたら幸いです。

【訃報】サウンドスケープの提唱者でカナダの作曲家R.M.シェーファー

【訃報】「サウンドスケープ」や「Acoustic Design(邦訳:サウンドスケープ・デザイン)」の思考を提唱し、美しい合唱曲を数多く残したカナダの作曲家R.M.シェーファーが亡くなりました。88歳でした。原爆の落とされた長崎をテーマにした作品も書いていますし、昨日の「蓮の音」にちなみ折に触れご紹介している『音さがしの本〜リトル・サウンド・エデュケーション』は日本のこどもたちに向けて書かれた弘前大学今田先生との共著です。2006年の弘前、九州来日が最後になりますが日本にも馴染みの深い音楽家でした。
 ちょうど来月の東京芸術劇場のセミナーに向けて『The Tuning of The World(邦題『世界の調律』)を読み返している最中でした。今だから白状しますが、80年代に池袋西武でこの分厚い翻訳本を手に取ったきっかけは「マリー」という名前から女性が書いた本だと勘違いしたからでした。インターネットも無かった時代、知り得る情報はとても限られていました。残念ながら国内は絶版になってしまいましたが、この一冊の本が私の音楽観だけでなく、人生を大きく変えることになります。最初にこの書を国内に紹介した早世の作曲家・芦川聡氏をはじめ、後に出会うことになる翻訳に尽力された先人たちの仕事を深くリスペクトしています。考えてみたら、すでに亡くなっていましたが芦川氏はこの池袋西武(アール・ヴィヴァン)に勤めていた訳ですから、あの日何気なく本棚の前に立った私は呼ばれたのかもしれません。
 正直シェーファーの主張は、21世紀の原発事故やコロナ時代を生きる今の時代感覚には馴染まなくなってしまったことも多いです。父と同世代と考えると納得いきます。本書で取り上げている音響テクノロジーもスマホ等の登場で様変わりし、世界を「聴覚だけ」で考えることが不自然になってしまいました。しかし確信しているのは、この本を「哲学書」と読み直した時、一度時代に淘汰された後にも必ず真理が残るだろうということです。ではその真理とは何か。私は最終章の「沈黙」にあると思っていますがそのお話はまたどこかで。というのも、若尾裕先生の著書『モア・ザン・ミュージック』のインタビューから透けて見える「人間 シェーファー」が哲学者ではなく、やはり音楽家であると感じるからです。確固たる思考をもとに言葉で真理を追究するというよりは、直感的に身体を動かしながら彼自身も時間の中を音楽のように生きている。だから100年後かもしれませんが、真理が後からついてくると思うのです。そしてユーモアのセンスも忘れない。自身がアルツハイマーを患ってからも同名曲を書くくらいに。
 音楽や音楽教育だけでなく、片目を失明しなければ画家としての人生を歩んだかもしれないシェーファーはバウハウスを念頭に置いた美術教育にも造詣が深かったです。
 環境学、社会福祉など、実学にも枝葉を伸ばして「サウンドスケープ」という言葉はこれからも使われていくはずです。「音の風景」から「響きあう世界 Sonic universe」へ。シェーファーに感謝の意を込めながら、これからもサウンドスケープを「耳の哲学」として考えていきたいと思います。
ササマユウコ記 2021.08.16