「境界を考える~週末の感想から」

 昨日は地域のコミュニティでささやかに素敵に開催されている「ニチヨウツキイチ」に立ち寄りながら、映画『LISTEN』で出会った聾のアーティスト諸星春那さんの個展『DEAF HOOD+~そう遠くはない未来~in the near future』(@アートラボアキバ10/1まで)と、10年つづくコミュニティミュージック「うたの住む家プロジェクト」のコンサート『わたしの詩(うた)と歌(うた)」(@両国門天ホール 主催:即興からめーる団 助成:アーツカウンシル東京)にお邪魔しました。
 両者のイベントに関連性はないのですが、近くの会場で同時期に開催され、そこを自身が行き来する中で根底がつながったように思いました。それは何かと考えた時、頭に浮かんだキーワードは「コトバ」「時間」「境界」です。特に「境界」は現在進行中の協働プロジェクト『聾/聴の境界をきく~言語・非言語対話の可能性」について思いを巡らせているところなので、とても興味深いテーマです。サウンドスケープを提唱したカナダの作曲家M.シェーファー自身の音楽活動も、最終的には(ご尊命です)地域のコミュニティ・ミュージックに向かいます。世界を「音の風景」と捉え直した時、それは整然と平均律的に整えられた大きな音楽(シンフォニー)ではなく、非楽音も含んだ小さな音楽(コミュニティ)が混在する複合体であることが見えてきます。そこでの「境界」は何かと考えた時、「国境」のように人為的に一本の線を引いて「分断」するものではなく、塗り絵のインクが「枠」をはみ出して滲んでいくように、コミュニティ周辺には常に混ざり合った場所が存在すると考えます。そしてその場所をコネクトでは「境界」と呼ぼうと思います。
 昨日のふたつのイベントはまさにその「滲み」を内包した場だと思いました。諸星さんの会場にはスライド映写機の音がサウンドアートのように「時」を刻みながら、
彼女の世界と「対話(筆談、手話)」することが可能です。「聞こえる鑑賞者は隔てられたままになっている懸念があっても、(DEAF HOOD)をタイトルにしたのは当事者しかできないことを大切にしたかったからかもしれない」と作家自身がパンフにも書かれているように、「きこえる|きこえない」の境界を解りやすく越えようとするのではなく、「聾の世界」から滲み出てくるものを繊細に感じて掬い取るような、同時に聾者にとっては共感できるような作品が生まれていました。
 一方の「うたの住む家」は、長年積み重ねられたメンバー間の信頼関係を「内側」に閉じることなく、「公演脚本」に演劇人の柏木陽さんを迎入れることで「コトバ」を媒体に場を客席に「ひらこう」とする意思が感じられました。主催の即興からめーる団(赤羽美希、正木恵子)がもつ確かな音楽スキルで場を下支えしつつ、会場全体を包むふたりの’自然体’やユーモアが軸となって、ステージ上のコミュニティを越えて外側に届けられる「オンガクとコトバの素敵な出会い=歌」を純粋に楽しむことができました。特に今回は「音楽と演劇の境界」に生まれたステージだったと思います。
 多様性のある「境界」ではさまざまな「アート」が日々生まれています。それをどうやって「かたち」にして、内側に閉ざすことなく外側に「滲ませる」か。そこでは専門家(アーティスト)の持つ「芸術(アート)」が媒体として力を持つことはもちろんのこと、音の風景を編むように築かれた境界の関係性に生まれる「質感」こそが大切だと考えます。「暮らす=生きる」ことの延長線上にあるふたつの芸術からの雑感でした。

(9.25ササマユウコ)