ソフィア哲学カフェ(@上智大学グローバル・コンサーン研究所)に参加しました。

コネクトではシェーファーと所縁の深い弘前大学今田研究室の「音楽×哲学カフェ」を開催していますが、そもそも大学から社会に「哲学カフェ」を広めたのは、鷲田清一先生を中心にした大阪大学臨床哲学研究室。阪神淡路大震災を機に、生きるための実学としての「哲学」を関西から全国にひらいてきました。その臨床哲学の根幹にある「聴くことの力」は、「きく」から世界と関わり直すサウンドスケープの考え方とも非常に親和性が高いと考えています。「しゃべりすぎていた哲学」「奏ですぎていた音楽」、つまりは専門領域からの一方通行だった関係性を内側から見直し、誰にとってもひらかれた「哲学」「音楽」の在り方、相互関係としての対話を考え、社会にひらきます。

 

5月30日には臨床哲学の寺田俊郎先生(現上智大学哲学科長)が進行役を務める哲学カフェが、同大学グローバル・コンサーン研究所で開催されました。寺田先生には共通の知人がいること、また会場が筆者の母校ということもあり足を運んでみました。この日のテーマは「いのち」です。学内での開催ということで、10名を超える参加者は哲学科の学生さんが中心となり、そこに一般の’大人’たちが数名参加するという珍しい場となりました。哲学カフェの面白いところは、さまざまな背景をもつ世代を越えた人たち誰もが、哲学の専門知識を必要とせず’平等に’参加できるということです。ただしそこに生まれる場は、リラックスした雰囲気ながらも単なる雑談ではなく、専門性を持つ「進行役」(今回は寺田先生)によって緩やかに交通整理され、時間の経過とともに哲学のスパイスが効いた対話の時間へと変化していきます。時おり立ち止まり、トピックをふり返り共有する。さまざまな角度から語られ、広がる話題のポイントを掬い上げ、場に投げ返す。興味深い話題を反復し、再提案する。この時間の流れは、どこか音楽やダンスの即興セッションとも共通する感覚や技術だとも感じました。「臨床哲学」と名付けられた所以は、この即興的な時間の流れにもあるのだと思いますし、それでは言語/非言語の即興的対話の違いは何だろうかと、年頭からアートミーツケア学会分科会での宿題となっている「問い」をあらためて考える機会にもなりました。臨床哲学の対話にはコトバで音風景を紡ぐような、専門性を越えた調和の世界を目指すところがある。誤解なきように言えば「調和」とは「同調」ではなく、多様性が生き生きとありのままに存在する相互関係の世界です。それは民主主義の基本でもあり、「体験して」身に着けるものだということもわかってくる。サウンドスケープを学ぶサウンド・エデュケーションと同様の考え方です。
今回は「いのち」という壮大なテーマでしたので、当然「正解」がある訳ではありません。しかし、限られた時間の中で学生さんたちの若々しく真剣な思考を「きく」ことから、まずは自分自身の「いのち」が今どのような場にあるのか、また年齢を重ねた思考そのものの変化にも気づく貴重な体験だったと思います。思考は、あるいは「いのち」そのものは、人生の経験に比例して「変化」するのだと。そして自身の「変化」は、自覚よりも他者の存在を「きく」ことで気づく方が大きいものかもしれないと思いました。

寺田先生にお伺いしたところ「進行役」は哲学者でなくても構わないそうですが、その素養や知識はあった方が望ましいということでした。筆者の感想からも「対話の時間」を深めるためには、進行役にその即興的なプロセスを楽しめる「度量」が必要だと感じました。まずは「誘導しない」「諭さない」「押し付けない」。ある意味、最も「きく力」を必要とされるのが「進行役」であることは間違いありません。

□以下は、最初に提示された臨床哲学カフェの「3つのルール」です。一見簡単なようでいて実はなかなか難しい。「生きる知恵」とも言える大変興味深い内容でしたので、共有したいと思います。
1)人の話しは最後までよく「きく」こと ⇒自分の思考を深めるため。

2)自分のコトバで話すこと。⇒過去の哲学者の言葉を引用しても構わないが、身体を通して理解してから使うこと。

3)自分のコトバ(思考)は変わることがあることを知ること。⇒その変化を「楽しむ」こと。自分は「正しい」と思いこまない、押し付けないこと。

 

□街中で開催される臨床哲学のカフェ(カフェフィロ)に参加したい、また開催してみたいとお考えの方は、以下のサイトもご参照ください。(ササマユウコ 記)

http://www.cafephilo.jp