【寄稿】「さいたま国際芸術祭2020」をみて

 3月から延期になっていた『さいたま国際芸術祭』が無事に開催された。最終日近く、大学で同じ学芸員過程を履修している友人と訪れることが出来た。友人と一緒にどこかへ行くのは初めてだった。

写真①最果タヒ『詩の停止』
写真①最果タヒ『詩の停止』

 大宮駅前は新旧が入り混じる商店街があって、多くの人で賑わっていた。初めて来たのにどこか懐かしい気持ちになる。商店街を抜けて芸術祭のメインサイトとなる旧大宮市役所から旧大宮図書館(アネックスサイト)へ移動する途中、小さな地下道に寄った。足元には個人的にも大好きな最果タヒの詩が書かれている(写真①)。今回楽しみにしていた作品のひとつだ。研ぎ澄まされた言葉を辿って静かな空間を歩くと、彼女の詩集を読んでいる時の感覚を思い出した。少しだけ、内側が透明になる。この感じを忘れたくなくて、この日も帰宅してから彼女の詩集を読み返した。賑やかな街の地下にひっそりとある異世界は、まるで今の大学生活のようだ。

 釜ヶ崎芸術大学『ことばのむし干し(星)』が印象的だった図書館の展示(写真②)。この後、すぐ近くにある氷川神社に行った。

写真③氷川神社のふくろ絵馬
写真③氷川神社のふくろ絵馬

  奉納された色とりどりのふくろ絵馬が花屋のように綺麗だった(写真③)。このひとつひとつに誰かの願い事が込められているのは素敵だ。展示を見ながら、神社の参道を歩きながら、おやつを食べながら、友人ととりとめのない会話をした。大学のオンライン化で一番困るのは、気軽に雑談できないことかもしれない。同じ空間を、時間を誰かと共有するなんて、ずっと気にも留めない日常だった。それがコロナ禍の今は本当に貴重で、新鮮で、何より嬉しかった。

写真④篠田太郎『ニセンニジュウネン』
写真④篠田太郎『ニセンニジュウネン』

 オンラインで授業を受ける生活で、私にとっての時間はPCの右上に表示される4桁の数字だった。音もなく過ぎていく時間。この展示では砂時計のような、あるいは枯山水のような空間に身をおいて、時の流れを久しぶりに身体から実感できたと思う。(写真④)市役所時代そのままの「高齢介護課」の看板がふと目に止まる。今この瞬間も、私の中の時間は過ぎているのだと感傷的な気持ちになった。10代最後の一年、その貴重な時間を噛み締めて生きようと思う。

砂の落ちる音は時が流れる音なのだ。

写真⑤須田悦弘『チューリップ』
写真⑤須田悦弘『チューリップ』

 須田悦弘の作品は、小学生の時に横浜美術館で目の見えない人たちと一緒に鑑賞したことがある。再会。道端で季節をめぐる花が咲いているのを見つけた時の気持ち。(写真⑤)見つける前より少しだけ心が色づいたような感覚。花はしばしば儚さの象徴とされる。確かに、どんなに綺麗な花も時間と共に散ってしまう。けれど無になってしまう訳ではないと思う。人々の心に、大地に、花の気配は残っている。「花びらは散っても花は散らない」という仏教の言葉を思い出した。

 今回の芸術祭のテーマは「花」だ。そして私の名前も「花」である。実はこの繋がりが、東京から埼玉へ芸術祭を見に行く決め手にもなった。芸術祭を通して、いろいろな人の「花」を見てみたいと思った。「花」を感じて、「花」とは何か考えること。それは私にとって、自分の内側と向き合うことでもある。白い無機質な壁から咲く花は、地面のすぐ下には土があることを思い出させてくれる。

写真⑥会場の地下に広がる異世界
写真⑥会場の地下に広がる異世界

  会場の地下にも異世界がある。梅田哲也『0階』(写真⑥)。ミラーボールが回る食堂。空の棚が並ぶ倉庫。くるくるとあっという間に針が進む時計。会場の前を通り過ぎてゆく人々は、地下に異世界があることを知らない。考えてみると、とても不思議な感じがする。アスファルトを突き破って咲く前の花を見たような気がした。

写真⑦梅田哲也『0階』
写真⑦梅田哲也『0階』

(写真⑦)私の中にも、まだ誰も知らない異世界があって、そこには花が眠っている。きっと、一緒に芸術祭をまわった友人の中にも、私とは違う世界が、花がある。まだ互いを認識してから2ヶ月ほど。実際に会うのは数回目の友人は、私にとって未知の世界だ。なかなか会うことはできないけれど、これからお互いの世界を共有できたら良いなと思う。

 ひとの中に花が眠っていると思うと、少し優しくなれる気がする。誰かの、そして自分の中にある花を大切にできる人になりたい。
「花」がテーマである今回の芸術祭を通して、そう強く思った。


寄稿・今井花
お茶の水女子大学文教育学部人文科学科1年。課題に追われつつ、Web記事を書いたり、演劇をつくったり、入学と同時にオンラインで学生生活。寝ることが好き。