シンポジウム「障害者による芸術文化活動のこれから」(主催:厚労省、YPAM連携事業)に参加しました(12/11)

 先週12月9日に実施されたシンポジウム「障害者による芸術文化活動のこれから」は、現在厚労省が推進している「障害者芸術文化活動普及支援事業」の一環でした。実は文化庁にも「障害者等による文化芸術活動推進事業」があります(現時点のサイト情報では令和5年度の事業募集があるのか不明ですが)。そもそも「芸術文化」と「文化芸術」の違いとは何か、両庁の言葉/概念の定義の違いも気になるところでした。

 何より現時点では福祉の中にある芸術(厚労省)、芸術の中にある福祉(文化庁)がきっぱりと分断されている訳でもありません。アーティストを含めて関わる人が重なっている現場も珍しくありません。それぞれの現場で求められていることが違う場合もあるし、そうではない場合もある。国内では幸か不幸かオリパラ文化政策とパンデミックが重なったことで、芸術や福祉の概念や在り方の問い直しが求められていて、当事者を含めた活発な議論が始まったところだとも言えるでしょう。今回紹介された世田谷パブリックシアターのアウトリーチやPalabra株式会社のアクセシビリティへの取り組みはもちろん、筆者も7年間ご一緒している新井英夫さん(進行性の難病闘病中)と鈴木励滋さんのカプカプ・ワークショップの事例は、実際に現場に関わっていくフリーランス・アーティストや福祉施設スタッフにとっても興味深い内容だったと思います。
 現在、障害や福祉を考える上での世界的動向は「医学/医療モデル」「社会モデル」から「肯定モデル/共犯モデル」に移行しつつあるということは、先日出席したアートミーツケア学会でも学びました。カプカプはまさに新しい福祉モデルであり、芸術でもあると感じています。カプカプではメンバーはもちろん、訪れたアーティストも大事にされますし、実はこの7年間の現場で「障害者」という言葉を一度も聞いたことがありません。ケアする/される境界に相互関係を生むのが「芸術活動の力」だと実感しています。
 超高齢化の進む社会の中では、これまでの「健常者」「障害者」という二項対立の境界はどんどん曖昧になっていくはずです。実際に筆者が住む東京郊外を走るバスの乗客は、ほぼ全員が高齢者で杖を使用しています。たった二席の「優先席」の意味も無くなっています。80代半ばの母の耳は補聴器が無ければほとんど聴こえなくなりました。障害がある人を「エンパワメント」していたアーティスト自身が病や高齢で身体が不自由になることも当然あります。一方的に「ケアする立場」だけを担わされている施設スタッフさんをケアする人が必要であるように、本来は芸術/芸術家を対象にした「福祉」も必要になるはずです。既に、ろう者によるろう者の芸術家育成プログラムが始まっていますが、障害の当事者が主体的につくる芸術(教育)の場もさらに増えていくことでしょう。
 つまりは誰もが「よく生きる」社会とは何か。芸術文化活動の在り方もひとつの指標になることは間違いありません。

 
 例えばカプカプの新井一座ワークショップの場は予定調和には収まりません。豊かなアイデアを持つメンバーが主導となって場が展開していくこともあります。そこでは芸術が得意とする即興性や創造性や実験性が生き生きと発揮されていくのです。「作品」という成果(訓練)が強要されずにプロセスを重視する時間には、芸術の「リレーショナル・アート」や「ワーク・イン・プログレス」のような受け止め方が必要になるはずです。新井さんも映像で話していましたが、「障害者」と言われるメンバーひとりひとりの内にある芸術が表出するための「きっかけ」を見つけ出すこと、アーティストは少し背中を押してあげるタイミングに集中すればよいのです。「指導する/される」ではなく、芸術を媒体に平等な関係性や表現の自由を第一に考えます。

 カプカプの事例のように、成果ではなく相互の関係性、メンバーの日常を豊かにするプロセスの積み重ねに目的を移していくと芸術が途端に生き生きとします。これは皮肉なことに学校教育や能力主義の芸術教育とは対極にあると言えて、だからこそ専門教育を受けた人こそ世界との関わり直し、捉え直しが必要になると感じています(筆者がそうでした)。先週のアートミーツケア学会に続き、芸術教育の問題も炙り出されたようなシンポジウムでした。

〇このシンポジウムの収録動画は後日公開される予定です。

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アートミーツケア学会2022「アートとケアと教育と」に参加しました。

   12月3、4日、東京学芸大学で開催されたアートミーツケア学会に参加しました。ホスト大学の特色によって毎回カラーが大きく変わるユニークな学会ですが、意外なことに「教育」の視点が入ったのは今回はじめてのこと。コロナ対策もあって従来の”あそび”の要素は減りましたが、小規模な学会だからこその異分野交流やアットホームな対話が生まれる時間に出会うことが出来ました。

〇プログラム詳細はこちらからご覧頂けます。
 今回は国内外から3つの基調講演がありました。最初は「Disability Justice in Arts Education 大会日本語訳:芸術教育における障害者の定義」と題してオンライン登壇のミラ・カリオ・タビン氏(Dr. Mira Kallio-Tavin ジョージア大学 ラマー・ドッド美術学部 ウィニー・チャンドラー特別教授)による障害学研究の現状や現代アートのアプローチ、そして芸術教育の社会的な役割についての講演でした。続いて国内からは、コロナ禍の特別支援学級の美術教育のこころみ、広島のアートサポートセンターのコレクティブな実践例、そして盲学校や視覚障害者を対象にした美術教育の今が紹介され、いずれも示唆に富み大変興味深かったです。
 実はコネクトに「教育」の文字を入れたのは、そもそも筆者の大学時代の専攻が教育哲学や視聴覚教育だったこともありますが、公共の場(相模原市立市民・大学交流センター)で立ち上げたプロジェクトだったことも大きな理由です。今回もアートとケアの文脈に「教育」の視点が加わることで、学会には一気に社会的な役割が提示されたような印象を受けました。そして、あらためて教育的な視点の大切さも感じました。何よりも「教育」には次世代、未来へのまなざしが含まれているからです。サウンドスケープを提唱したR.M.シェーファーも「サウンド・エデュケーション」という全的で新しい音楽教育を提示しました。
 国内外の基調講演を照らし合わせると、芸術教育を問うことは現在の芸術の価値やケアを問い直すことであり、21世紀に相応しい文化政策や福祉制度、つまりは社会の「在り方」そのものを考えることでもあることが解ります。そして「よく生きるとは何か」を日々問い続けるパンデミックの中で、アート、ケア、芸術教育は世界的なアップデートが求められているのだとも思いました。

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【記録②】福祉と舞台芸術をつなぐファシリテーター・コーディネーター養成講座【団地ピロティ編】

①車椅子にのるとカプカプ・メンバーと目線が揃う。奥に見えるのが商店街(左・新井英夫)
①車椅子にのるとカプカプ・メンバーと目線が揃う。奥に見えるのが商店街(左・新井英夫)

第1回オンライン講座の記録はこちら→


実施日:2022年11月10日(木)

第2回のテーマ:はんなり、やんわり、ゆっくり、声、呼吸

場所:団地のピロティ

【はじめに】当初は雨が心配されましたが天候にも恵まれ、先週10日からいよいよカプカプ現地での実践講座が始まりました。
 日々変化する新井さんの体調を考慮し、対面/ハイブリッドどちらの方法を取るかは当日朝7時まで保留でしたので、現場は臨機応変に対応することが求められました。これは今回の場に限らず、多様な心身を抱えた福祉の現場では実はよくあることだと思います。前回のオンライン会議でも話題に出ましたが、福祉のワークショップでは「予定通り」であることが必ずしも正解ではない。今回の場合は会議で決まったキーワード「はんなり」を枠組みに即興性や創造性を大切にした場が編まれていきます。だから事前に準備したモノやオトは「場の状況」に応じて取捨選択されます。ちなみにこの日は交通事情で講師3名(新井、板坂、小日山)の到着が遅れ、最初に予定されたオープニングの講師パフォーマンスを始め、いくつかのプログラムが割愛・変更されました。反対に自己紹介やなべなべ、ヨガや声を使った呼吸法など、「起承転結」のトリガーとなるルーティン・プログラムは「いつも通り」を守り、その柱をつなぐように即興的で美しい「モノコトヒト」の時間が編まれていきます。
 という訳で、いつも以上に予定外の展開でしたので、待つ時間を急遽「導入部」として組み立てる必要がありました。先に現地入りしたササマから、今回から新井さんが電動車椅子を使用すること、このワークショップでの「音」の役割について説明をさせて頂き、ピロティに用意されていた「シャボン玉セット」を使ってカプカプーズと共に身体や関係性を「ほぐす」時間を過ごして頂きました。この日のカプカプーズは自らが「講師役」を担う自負もあり、最初は少し緊張がみられた受講生たちをすんなりと「場」に迎え入れてくれました。これは日頃から「接客」を得意としているカプカプ・メンバーならでの”おもてなし”です。結果的にこの時間があったことで、自然な流れの中で午前のプログラムが始まっていきました。
 ちなみにシャボン玉の時に弾いていたピアノは「伴奏」のように音で身体を鼓舞する目的ではなく、一定のリズムやミニマルな音を紡ぎながらピロティ全体の音風景を緩やかに整えていく役割を担っていました。

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「青い鳥」とは何か~AAPA新作ダンス公演『こもりのあとの青い鳥』から考える

撮影:Hana Imai 右上には水クラゲが映っている(らしい)。
撮影:Hana Imai 右上には水クラゲが映っている(らしい)。

  両国に来ると少し背筋が伸びるのは、この街の足元には沢山の命が眠っているからかもしれない。回向院の無縁仏に手を合わせ、明暦の大火、関東大震災、東京大空襲に思いを馳せる。隅田川に出ると高速道路がつらぬくビル群の中で、この川の上だけは空が広いことを実感する。川辺にも戦争、疫病、水害、地震、、名も知らぬ市井の人たちを悼む大きな石碑が立てられている。祈りの街だなと思う。
 神楽坂育ちの娘は子どもの頃から両国が好きで、いつか住みたいと話していたことを思い出す。彼女の曾祖母は下町大空襲の犠牲になっている。立ち寄った両国花火資料館で、明暦の大火では江戸に暮らす人の5分の1(10万人)が犠牲になったときいた。
 娘と一緒に川の水面を眺めていると、彼女が一匹の水クラゲが漂っているのを見つけた。時おり訪れる江の島駅の水槽で泳ぐあの白い海月である。頭には幸福のシンボル「四葉のクローバー」のような模様がついている。ふわりふわりと白い布が漂うように川の中をのぼっていく。
「海月は脳みそもないし、心臓がないし、死ぬと溶けてしまう。理想だよね」

と娘が言う。海月はなぜこの世界に存在しているのだろう。かたちだけでなく、地上のキノコの存在ともどこか似ている。何よりここは海ではなく川だ。海から川をのぼり、この海月はどこに向かっているのだろう。この川に散った無数の魂のひとつだろうか。

 水と火と光と命が溶け合っていく。

 

 メーテルリンクのクリスマス童話/戯曲『青い鳥』は1908年にモスクワ芸術座で初演され、翌年の1909年に出版された。国内ではチルチル&ミチルを日本人の「近雄(チカオ)と美知子(ミチコ)」に置き換え、1911年には子ども向けに出版されている。そして現在までに100点以上の完訳、リメイク、絵本等の『青い鳥』が存在するという。私が7歳(1971年)の時に夏休みの読書感想文の宿題として読んだ『青い鳥』は戯曲では無く、子ども向けのノベライズだった。しかし私はこの物語に夢中になり、まさにチルチルとミチルと一緒に「青い鳥」を探しに出かけた「ほんとうのはなし」として学校に”読書感想文”を提出した。言葉遣いも口語で、ほとんど作文の体をなしていないにも関わらず(母には書き直しを命じられたが)担任の先生が面白がって下さり、どこかの賞まで頂いてしまった。子どもの感性をそのまま受け止めてくれた昭和の大らかな国語教育の記憶である。ちなみに『青い鳥』の本は、ノーベル文学賞作家でもあるメーテルリンクの故郷ベルギー、晩年を過ごしたフランスでもほとんど知られていないというのが興味深い。
 前置きが大変長くなってしまったが、この読書感想文からちょうど半世紀の時が過ぎ、私はふたたび『青い鳥』の感想文を書こうとしている。今回は読書ではなく舞台感想文である。

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福祉と伝統のものづくりの可能性(ニュートラ展in 東京)が開催されます。

 コネクトでも2014年の施設見学以来、たびたびご紹介している奈良・たんぽぽの家さんが素敵な展覧会を開催します。

 

・・・・・以下、たんぽぽの家から。

展覧会「ニュートラ展in 東京」

11月3日(木・祝)〜6日(日)まで、ニュートラの実験と実践を紹介する展覧会を開催します!会場は渋谷、山田遊さん率いるmethodの本拠地、(PLACE)by methodおよびCIRCLEです。

 11月4日には「フィールドワークとデザイン」をテーマに𠮷田勝信(デザイナー)さん、11月5日には「ものを買う動機」をテーマに、山田 遊(株式会社メソッド代表取締役)とともに、ニュートラの学校も開催します!

みなさんのお越しをお待ちしています!

http://goodjobcenter.com/news/3022/

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「ニュートラ展in東京」開催概要

会期:11月3日(木・祝)〜6日(日) 12:00~19:00

会場:(PLACE)by method、CIRCLE(東京都渋谷区東1丁目3−1 カミニート)

・主催:一般財団法人たんぽぽの家

・協力:社会福祉法人わたぼうしの会 method Inc.

・助成:日本財団

・展示:

NEW DANTSU(緞通/山形)

CLAY WORKS(土によるものづくり/常滑・奈良)

紙仏/POPな紙漉き/明滅する線(和紙/鳥取)

春日大社境内の杉(木工/奈良)

たたいて みがいて つくる木の仕事シリーズ(木工/奈良)

GoodJob!のはりこ(はりこ/奈良)

OKAIKOSAN(養蚕/奈良)

こけしと棒人形(奈良)

ほか

ビジュアルデザイン:原田祐馬(UMA/design farm)

写真:西岡潔

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【記録①】福祉と舞台芸術をつなぐコーディネーター/ファシリテーター養成講座はじまりました

〇誤って冒頭記事を削除してしまいました。申し訳ございません。

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第21回定期コンサート『新倉壮朗の世界』(和光大学ポプリホール鶴川)を聴いて

 9月9日に和光大学ポプリホール鶴川で開催された新倉壮朗さんの定期コンサートに伺いました。

 壮朗さんのオンガクとの出会いは、今から10年程前に大友良英さんのWS(岩波書店主催)で聴いたパーカッションに圧倒されたのがきっかけです。まだ少年のようなあどけなさが残る姿で、ドンピシャりと空気にハマるリズムを奏でていました。その後、偶然にも地元かつ共通の知人が多く関わるミュージシャンだと知り、時おり演奏を聴かせて頂いています。偶然にもコネクトにも時々登場するコヒロコタロウの小日山拓也さん、石橋鼓太郎さんもスタッフで長年関わっています。

 特にここ数年の壮朗さんは「誰にも似ていないピアノ」を奏でる時間が印象的です。そして彼も例外ではなくコロナ禍で他者と隔絶された「独りの時間」によってオンガク性を進化/深化させ、この日も1音目から何とも美しい響き(和声)を奏でていました。
  少し専門的になりますが、その和声は西洋音楽のロジックのようでいて、やはり誰にも似ていない「タケオさんのオンガク」なのです。今まで半世紀近くピアノを弾いて聴いてきましたが未聴感があります。予想がつかない展開やパフォーマンスの面白さもありますが、それ以上に何よりもまず音選びが「唯一無二」なのです。ピアノ音楽の可能性そのものが広がる感覚です。壮朗さんにとっては打楽器の延長にあったはずのピアノから、楽器本来の豊かな和声が鳴り響く。共演の梅津和時さんとの「かけひき」もスリリングで、1部の1曲目から聴きごたえのある即興セッションが生まれていきました。

 大地から湧き出る泉のような歌声やサービス精神あふれるボイスパフォーマンスの2部、そして身体に深く染み込んだアフリカン・パーカッションの安定感が魅せる3部。対照的に1部はむしろ思慮深く鍵盤から音を選び出し、響きと対話する姿が印象的でした。何よりも降りてくるインスピレーションをキャッチして、内発的に指先から鍵盤へとオンガクを伝える瞬間、そこから生まれる音世界に心を震わせるような瞬間には同じピアノ弾きとして共感もありました。その音の洪水の後に生まれる長い沈黙には頭の中で鳴り響く森羅万象の余韻に壮朗さん自身が耳を澄ましているようにも思えました。それは、音のないオンガクです。

 昨年に続き、マスクをした客席はレスポンス(特に笑顔)が見えず、壮朗さんはやりづらさも感じているだろうと思いました。しかし長年の舞台経験から、プロフェッショナル精神をもってステージを引き受けて、会場を盛り上げていく。時おりこぼれる満足そうな笑顔は決して自己満足ではなく、思い描くオンガクに近づけた喜びだと思いました。ひとりのアーティストのワーク・イン・プログレスに立ち会った時に感じる、クリエイションを共有できたような幸せな瞬間でした。同時に共演者たちの包容力、非言語コミュニケーションで深められた壮朗さんとの信頼関係も印象的でした。オンガクの真髄はやはり非言語の世界にあることを実感します。その世界に到達するための楽譜を含めた音楽言語なのです
  壮朗さんのオンガクの魅力は透明な音が震わせる時空に身を置いた時に実感できます。機会がありましたら、是非いちど体験してみてください。

 
追記:
 美術の「アール・ブリュット(生の芸術)」に相当する世界が音楽では未だ出現しません(ミュージック・ブリュットという造語は一部で見かけますが)。それはなぜでしょうか。理由についての考察はまた別途、ここから2年をかけて筆者の経験を振り返りながら書き重ねていきたいと思います。
 そもそも音楽と音楽でないものの違いとは何か。まず何より「音」は必須条件ではないと、例えば「ろう者のオンガク」と出会った経験から考えます。さらに音楽的知性言語的知性は同じものではないという経験もカプカプや壮朗さんの音楽から実感しています。
 そもそも世界の線引きは誰がするのか。つまるところ音楽とは何か、何がオンガクか。3.11を機に続く自らの「問い」に、もう一度立ち返りたいと思います。(サ)。

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『近代日本の演劇と吉田謙吉 ~本業は舞台美術家です』記録研究・資料集の完成と路上観察学会分科会、そして団地(7/11)

 本日は桜美林大学芸術文化学群が2020年にホールと校舎を移転した「東京ひなたやまキャンパス」に隣接する山崎台団地商店街(町田市)にお邪魔しました。

 2014年に発足したコネクトで「団地」と言えば路上観察学会分科会、初期のメイン活動です。当時から桜美林大学で講師を務めている鈴木健介(舞台美術家・青年団所属)をリーダーに迎え、同じく青年団の俳優・山内健司さん、松田弘子さんをメインメンバーに、そのほか周辺の人たちを緩やかに巻き込みながら、月1度程の精力的なペースで路上観察を続けました。当時の活動記録はこちらからご覧頂けます。

 

 この活動が始まってすぐに、「考現学」今和次郎の弟子で舞台美術家の吉田健吉氏ご長女・塩沢珠江さんともつながりました。そのご縁からリーダー鈴木は2018年~2022年に実施された多摩美術大学学内共同研究チーム『近代日本の演劇と吉田謙吉 ~本業は舞台美術家です』に参加、ここ数年は記録研究・資料集の編纂に携わっていました。

 そしてこのたび『考現学 モデルノロヂオ』の原本を彷彿させる大変美しい記録資料本が完成し、限定200部の貴重な1冊を頂きました。個人的にも弘前大今田研究室からの経緯や、何より「サウンドスケープ」の言葉が考現学の資料に刻まれ嬉しいです。最近あちこちで課題となっている「記録に残していくこと」の大切さをあらためて実感しました。ありがとうございました。

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【夏至2022】空耳図書館のおんがくしつ「私たちは同じ空をきているか、生きているか?」Director’s Note

身体のリズムが変ると街のサウンドスケープも変わる「2022夏至のオンガク 私たちは同じ空をきいているか、生きているか?」より(撮影:新井英夫本人)
身体のリズムが変ると街のサウンドスケープも変わる「2022夏至のオンガク 私たちは同じ空をきいているか、生きているか?」より(撮影:新井英夫本人)
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【覚え書】新装カプカプWS「音とカラダのなんでもジッケン室」を実施して(記録:ササマユウコ)

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【寄稿】Chim↑Pom展『ハッピー・スプリング』@森美術館

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【今月の一冊】ティム・インゴルド『人類学とは何か』

今月から毎月1冊、「芸術教育デザイン」のまなざしからお勧めの本をご紹介します。

 

 今月は2020年3月末に亜紀書房から出版されたティム・インゴルド著『人類学とは何か』をご紹介します。裏表紙にはまるでコロナ時代のはじまりを預言するかのような言葉が並んでいますが、これは驚くべきことに偶然の一致です。なぜなら、この本の内容は20世紀の人類学の在り方を問い直し、もっと大きな視点から「人類(学)の未来」について書かれたものだからです。読まれるべき本、未来に残るであろう本には、不思議と時代の力も働くように思います。
 ティム・インゴルドは「線」から世界を捉え直した『ラインズ~線の文化史』で人類学のみならずアートや音楽、さまざまな分野で一躍注目された気鋭の人類学者ですので、既にご存知の方も多いと思います。以前ご紹介した弘前大学の高橋憲人著『環境が芸術(アート)になるとき~肌理の芸術論』でも参考文献として紹介されています。インゴルドの思想はサウンドスケープをはじめ、自分の周囲にある世界(環境)との関係性、それを紐解く芸術論とも非常に親和性が高いです。

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GOU TATEISHI個展『みえてる、みえてないのあいだ』を観て

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東京アートにエールを!2020『空耳散歩LISTEN/THINK/IMAGINE』を振り返って

 2020年に実施された「東京アートにエールを!」に出品したササマユウコ映像作品『空耳散歩』。東京都の特設サイトは2022年3月末日をもって終了しました。これまでに4000回近い予想外に多くのご視聴いただきました。心よりお礼を申し上げます。

 映像は引き続き、芸術教育デザイン室CONNNECTの著作権管理のもとYouTubeに残します。「耳の哲学」として「サウンドスケープ」とは何かを考える教材のひとつに、またオンガクとは何かを問う哲学対話の題材としてもご参照頂けましたら幸いです。

 「空耳散歩 LISTEN/THINK/IMAGINE」(全12分)は前編・後編の二部構成です。前半は、突然はじまったコロナ時代StayHomeの記録を兼ね、ササマユウコ生活圏の内と外の音宇宙を「きく」実践記録です。それまでの忙しい生活の中で見落としていた身近な世界をマクロコスモスにつなげるような経験となりました。また世界が未知のウィルスに騒然となっている中でも、静かに変わらずに営まれる自然界のリズムに生命力を感じていました。

 後半はその「きく実践」を踏まえての創作パート『宇宙の音楽』です。ろう者のオンガクを追求する舞踏家・雫境さん北千住や芝の家で音楽活動も展開する美術家・小日山拓也さんにご協力をいただきました。雫境さんにはササマが創作した「詩/文字/言葉」からインスパイアされた非言語手話を表現してもらい、その映像から再びインスパイアされた自身の即興ピアノを弾いています。分断された世界の中で、言葉を動機としたオンガク、異空間・時間差・無音の中でも生まれるオンガクの可能性を探りました。また小日山拓也さんには「円環の時間」の象徴として「月と太陽」をテーマにオリジナル影絵の走馬灯を制作頂きました。撮影現場では走馬燈そのものが発する「円環する音」も題材に使いました。再生速度を少し落とすことで視覚的な解像度を「上げる」ような効果を生み、その円環に内在する「うねり」にも宇宙を感じました。私たちの無意識には回転する星のリズムが刷り込まれているのかもしれません。
 この映像を制作した翌年の夏に、サウンドスケープの提唱者であるR.M.シェーファーが88歳でこの世を去りました。海外の訃報を伝える記事の中で、シェーファーは生まれつき視覚に障害があり8歳で片方の眼球を摘出したと記されていました。もともと絵の才能があり画家を目指していたシェーファーは、十代半ばで入学した美術学校を視力が理由で二年で自主退学し、そこから音楽の世界に身を転じます。シェーファー最大のオンガクとは、みるときくをつないだ知覚で森羅万象(響き合う世界)を発見し、そこに「サウンドスケープ」という名前をつけたことだと思います。ちなみに、その知覚の使い方を育む「きくレッスン」を「サウンド・エデュケーション」と言います。
 オンガクとは何か、何がオンガクか。音は生まれては消えていく。自然界のみならず日常の音風景すべてが本来が生まれては消えていく一期一会です。その偶然性が愛おしく記録に残すわけですが、一方で音風景とは「世界の切り取り方しだい」であることにも気づきました。常に変化している音風景は時間の移ろいに他なりません。その時間の捉え方を変えると違う音風景が立ち現れるのです。途切れることのない自販機の低周波、空調の室外機、車の音、パソコンのモーター音。。周囲に溢れている人工的で直線的な時間の中から、小鳥のさえずりや風のゆらぎ、マンホールの中を流れる水の音がきこえてくるのです。
 「直線的な時間」を感じている時は世界をピンポイントに切り取っているからなのです。本来の世界はもっと大きな「円環的な時間」で営まれている。このStayHome期とは、現代人がいつもの時間の中で足を止め、目できく、耳でみるように大きな時間を思い出した貴重な日々でもあったはずです。庭の片隅で毎年変わらずに咲く小さな花、森の中でひっそりと生息するキノコたち、鳥や虫たちの存在に気づき、彼らの時間を知りました。また、成長した子どもや年老いた両親、家族と共有する内的時間の厚みを再確認するような体験もありました。つまり、ウィルスに翻弄される人間界が急ブレーキを踏むように直線的時間の中で足を止めた時、忘れ去られていた大きな円環的時間が浮き彫りになったのです。
 時間を考えることはオンガクを考えることに他なりません。オンガクと時間は不可分ですし、サウンドスケープとはその時間が折り重なった「移ろう場」なのです。今回はその「場」をスマホに落とし込むことで、まるで作曲するように映像作品になったことが個人的には一番の発見でした。いわゆる音楽を作曲することと、サウンドスケープ映像を撮ることが同じ感覚で進められました。逆に言えばこの「空耳散歩」に映像ロジックは使われていないのです。これは「目できく」ワークショップ等に応用できると思います。

 そして、あれから2年が過ぎました。人間界はふたたび忙しない「直線的な時間」に戻ろうとしています。それは小さな時間の中に押し込められていくような感覚です。この春にはシェーファーが「地球で最もうるさい音」と示唆した「戦争のサウンドスケープ」まで鳴り始めています。オンガクとは何か、サウンドスケープとは何かを考えることは結局、人間とは何かを考えることに他なりません。原爆が落とされた長崎の曲を作り、米ソ冷戦構造の核の脅威から「サウンドスケープの調和」を説いたシェーファーが生きていたら、いま何を思うだろうと考えます。
 映像の中に「円環的時間」の象徴として回る床屋の看板が登場します。私が子どもの頃からあったその店のご主人も昨年亡くなりました。円環的時間の象徴だった看板はしばらく止まったままで寂しい限りでしたが、今ふたたび奥様の手によってくるくると回っています。これは時間やオンガクを考える上でとても象徴的な出来事でした。
 人生とは、短い直線をつなぎ合わせて大きな円環を作るような時間のことかもしれません。その時間が持つ「色彩」の移り変わりを、耳と目、全身でしっかりと感じ取ること。サウンドスケープとは絵葉書のように眺めるものではなく、世界の中心に自らを据えることで立ち現れる時間なのかもしれません。(2022年4月4日 ササマユウコ)

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What is Music?Thinking as a Soundscape.

サウンドスケープを「耳の哲学」に世界のウチとソトを思考実験するササマユウコの動画シリーズ。「LISTEN/THINK/IMAGINE」をテーマに①内的思考の時間②MUSICA MUNDANAの二部構成でウチとソトの世界をつないでいきます。「LISTEN/THINK/IMAGINE~目できく・耳でみる・全身をひらく」音の散歩をお楽しみください。

・東京アートにエールを!2020出品作品

・『コロナ時代の”新しい音楽のかたち“を思考実験する』(文化庁活動継続支援事業2020)

東京都専用サイトは2022年3月に終了しました。3800回のご視聴を頂きまして、ありがとうございました。

(C)2020 芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト

www.coconnect.jimdo.com
監督:ササマユウコ
Walking and DIrecred by Yuko Sasama
www.yukosasama.jimdo.com この映像に関する 
この映像に関するお問合せ tegami.connect@gmail.com

Soramimi Sampo♯01 LISTEN/THINK/IMAGINE Directed by Yuko Sasama
This movie is the essence of the Soundscape philosophy. "Soramimi Library" and "Impro cafe" are based on it. They are musical experiments by Yuko Sasama who is a unique Japanese musician. "Soramimi Sampo" means soundwalk that needs to listen, think, and imagine. This movie theme is "What is Music"? This is a project of Tokyo cheer for art 2020. https://cheerforart.jp/detail/3043 Soramimi Sampo #01 LISTEN/THINK/IMAGINE Sonic universe!(12:19) Part Ⅰ Inner Thoughts Part Ⅱ MUSICA MUNDANA (6:28~) Part Ⅱ Guest DAKEI/Poetry Body Movement by Deaf Takuya KOHIYAMA/Art of lights「Merry-go-round lantern」&Poetry Reading   Staff:Co-Editor/Hana IMAI  Piano Recording/analogmode  Director/Text/Piano/Walking  
Yuko SASAMA https://www.yukosasama.jimdo.com All copyrights reserved
(C)2020 CONNECT/コネクト https://www.coconnect.jimdo.com 
Contact us :tegami.connect@gmail.com

(2022年4月4日 ササマユウコ)

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育成×手話×藝術プロジェクト「ろう者のオンガク ディスカッション報告会」が開催されました。

3月30日はこちらの報告会に参加しました。

 昨秋の東京芸術劇場のディスカッションでも焦点になりましたが、「ろう者のオンガク(仮)」はまだ手話がない=名前がついていない芸術とも言え、当事者たちの研究も進んでいます。今年度は聴者にとっても比較的新しい学問領域と言える「音楽人類学」の視点から、牧原依里さん、松崎丈先生、雫境さん3名が1年間の議論内容を詳細にまとめて報告されました。

 映画『LISTEN リッスン』から抜粋されたシーンでは身体(筋肉)の緩急のリズム、そこから生まれるフレーズの繰り返しからオンガクを浮き彫りにし、VV(ヴィジュアル・ヴァーナキュラー)と呼ばれるろう者の視覚芸術や手話歌を比較対象として、その共通点や相違点から「ろう者のオンガク」のための実際的なスキルの訓練方法、そして最後には新しい名前(手話)が提案されました。

 聴者にとっても大変興味深い内容で、この研究は特に「聴覚的音楽に手話を合わせる」ような従来の聴者主導のろう学校の音楽教育等に少なからず影響を与えていくのではないかと感じています。前世紀には当たり前だった聴者(マジョリティ)の感覚は、いま次世代のろう者たちの当事者研究によってアップデートされています。聴者には「ろう者のオンガク」を「きく」姿勢が求められる時代となったことを知らなくてはなりません。
引き続き、今後の展開にも注目していきます。

(ササマユウコ)

 

〇育成×手話×藝術プロジェクトのサイトはこちら。今回の報告書も掲載される予定です。

https://www.tsa-deaf.com/deaf-ongaku?s=09

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空耳図書館のはるやすみ2022映像版 中原中也『サーカス』

【空耳図書館のはるやすみ2022】

 2015年に子どもゆめ基金助成事業(読書活動)としてスタートした恒例の「空耳図書館のはるやすみ」は今年も映像版として、大人たちにも向けて昨年の宮沢賢治『春と修羅』に続き、中原中也『サーカス』(詩集『山羊の歌』より)をご紹介します。

 『春と修羅』は大正13年(1924)に出版された宮沢賢治の生前唯一の詩集でした。この本はほとんど売れずに神田の古書街に横流しにされ、それをダダイスト詩人・中原中也が出版の翌年に偶然見つけて愛読します。今回の「サーカス」は『春と修羅』から10年後、昭和9年(1934)に出版された中也の詩集『山羊の歌』におさめられています。しかし実際に書かれたのは『春と修羅』の出会いから5年後、特に「原体剣舞連」の「Dah Dah Dah Dah」影響を受けたと言われています。おそらく「ダダ」の音がダダイストにとってお気に入りだったと思いますし、音楽的な賢治の言語感覚にも共鳴したのでしょう。実際に中也の未発表作の中には「ダダ音楽の歌詞」(『ダダ手帖』より)という詩もあり、音楽家たちとの交友録も残されていますので、オンガクは常に身近な芸術だったと思います。

 共に生前唯一の詩集を残した賢治と中也。年齢も生まれた場所も違うふたりが直接出遭うことはありませんでしたが、30代でこの世を去った早すぎる彼らの感性は100年後の今も色褪せることはありません。むしろ震災、疫病、戦争の時代を生きることになった今の私たちにこそ強く響くものがあります。

 今回はダダイズムの代表的な「コラージュ」の発想から、映像はメンバーが各所で撮影した素材のつぎはぎ、朗読も言葉の指示による別録り、音はサウンドスケープの記憶の断片を集めています。つながっていないはずの世界が「サーカス」をキーワードに不思議とつながっていきました。ブランコや玉乗りや動物の曲芸、、古いサーカス小屋は一見すると脈絡のない世界が次次と繰り広げられていきますが、そのコラージュされた時空が一期一会の宇宙を作り出します。それは予想外のことが置き続ける人生そのものとも言えますし、中也は当時の宙ぶらりんだった自身の存在をブランコに重ねたのかもしれません。

 創作から5年間温められた「サーカス」は中也自身によって朗読され、それをきっかけに翌月には仲間たちの協力で『山羊の歌』が出版されました。きっと印象的な朗読だったのだろうと思います。中也はどんな声で、どんな調子でこの七五調の詩を読んだのでしょうか。賢治と同じように言葉と音楽の間を探った詩人はきっと魅力的な演者でもあっただろうと思います。

 今回の映像朗読は、中也の作品を次世代に伝える目的で原文(文字)に忠実に読んでいます。空耳メンバーによるライブ版はまた別モノと捉えていますので、どこかで表現にも挑戦してみたいです。朗読の背景音は多様性のあるワークショップで生まれる音風景の記憶を再現してコラージュしています。

 ダダイズムは第一次世界大戦中のスイスで始まった100年前の芸術運動で、活動期間はわずか4年間です。フランスの詩人・トリスタン・ツァラの「ダダ」宣言は日本の芸術家たちにも影響を与えましたし、賢治も中也もその系譜にあります。戦争の破壊や虚無感からあらゆる既成概念を壊そうとした分野を横断する当時の芸術家たちは、本当は何を探り出そうとしていたのか。ダダの後につづくシュルレアリズムはナチスの厳しい弾圧に合います。権力者たちは芸術家たちの何を恐れていたのでしょうか。

空耳図書館のはるやすみ2022

テキスト:中原中也「サーカス」 詩集『山羊の歌』より 昭和9年(1934)出版

【空耳図書館コレクティブメンバー 50音順】

新井英夫 Hideo Arai(体奏、Movement&映像)、板坂記代子Kiyoko Itasaka(布、Movement)、

石橋鼓太郎 Kotaro Ishibashi(映像) 小日山拓也 Takuya Kohiyama(仮面と影絵、Reading、映像)、ササマユウコ Yuko Sasama(Soundscape、映像)、三宅博子 Hiroko Miyake(Voice)

ディレクター:ササマユウコ  Director:Yuko Sasama

空耳図書館のおんがくしつ

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〇この映像に関するお問合せ

soramimi.work@gmail.com

この映像の著作権は以下に帰属します。

(C)2022 芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト

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空耳図書館だより「空耳図書館のはるやすみ2022」

【空耳図書館だより】

 昨年の今頃は都内某所で撮影した「空耳図書館のはるやすみ」(助成:文化庁文化芸術活動の継続支援事業②ササマユウコの音楽活動)映像版の編集作業中でした。スペイン風邪、関東大震災の時代を生きた詩人・宮沢賢治が生前に1冊だけ出版した詩集『春と修羅』から冒頭であり”あとがき”でもあった「序」を空耳図書館コレクティブのメンバーと共にお届けしました。死後は童話作家として評価されていく賢治が、生前はダダイストとして詩集を出版している事実は興味深いです。賢治の死後に始まった戦争の中で「雨ニモ負ケズ」がどのように受け止められていったかを知ると皮肉なことですし、もし本人が生きていたら(作品が世に出た可能性は無いと思いますが)、芸術が戦争に利用されることは相当の苦しみになってしまったことでしょう。

 自費出版の『春と修羅』はほとんど売れず、神田の古本屋街に横流しされていたようです。そして少し年下で同じ時代を生きた詩人・中原中也がこれを偶然見つけて買い集め、周囲に配っていたというエピソードが印象的です。どんなに時代が早くても、本物の芸術は誰かに届く力を持っているのですね。

 奇しくも二人とも30代で胸を患い、最期はそれぞれの郷里である岩手と山口で亡くなりました。残念ながらこのふたりが出会うことはありませんでしたが、『春と修羅』の独特なオノマトペやリズムは中也の作品にも大きく影響を与えたと言われています。100年前はまだ誰も理解できなかった二人の言葉や感性はとても音楽に近く、ふたたび疫病と戦争の時代となった100年後の今にダイレクトにつながっている気がします。

という訳で、今年の「空耳図書館のはるやすみ」も映像版でお届けします。賢治の『春と修羅』から強く影響を受けたと言われる中原中也の有名な作品を空耳図書館コレクティブのメンバーと共にお届けします。春分の日に公開予定です。

また今週3月11日の東日本大震災の日には、「空耳図書館みくじ」第2弾を午前10時から3時まで1時間ごとに専用FBに投稿していきます。小さな言葉の力から何かが見つかりますように。

 是非、以下リンクの専用Facebookに「いいね」してフォローしてください。引き続きどうぞよろしくお願いいたします。
〇空耳図書館コレクティブ FB専用ページ→

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【出版のご案内】高橋憲人著『環境が芸術になるとき~肌理の芸術論』

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『空耳散歩 LISTEN/THINK/IMAGINE』東京アートにエールを!特設サイト期間延長のお知らせ。

 「東京アートにエールを!」の特設サイト。来年3月まで開設期間が延長されたようです。久しぶりに覗いたら予想の10倍くらいの方に観て頂いているので取り下げずに来年3月まで公開いたします。サウンドスケープを「耳の哲学」に音楽とは何かを問いながら、コロナ禍の記録も兼ねて古いIphone1台で撮影しています。後半は雫境さんの非言語手話、小日山拓也さんの影絵も。

 なぜ古いIhpone1台にしたかと言えば、「目できく、耳でみる、全身をひらく」をテーマにしたので、解像度や音質も含めなるべく自分の感覚器官や身体感覚、知覚と乖離が少ない映像にしたかったという理由があります。

 映像関係者に観て頂くと、映像ロジックで作られていないことも判るようです。私自身も基本的に「目で作曲する」感覚でした。専門技術を要するフィルム時代だったら作れなかったと思います。結果論ですが、視覚と聴覚をつないだシェーファーがたどり着いた図形楽譜、鳴り響く森羅万象を半径500メートル以内で追求したような時間でした。

 後半の創作部はまず言葉(詩)をろう者の雫境さんに渡して、時間(1分半)だけを指定しました。その中で言葉のイメージを自由に非言語手話で表現頂いています。文字と手話が重なっていないのは手話の字幕ではないからです。小日山さんの影絵は円環的時間の象徴として宇宙をテーマに走馬燈を作って頂きました。このモーター音が想定外で面白かったので、スローにしてノイズ音源として使っています。一見するとピアノに合わせて雫境さんが動いているように見えますが、両者の映像を撮ってからその映像に合わせて即興でピアノを弾きました。視覚から想起されるオンガクというか、この映像そのものが楽譜とも言えます。

 そして早くもここから2年が経とうとしています。先行きが見えない中で不安はないと言えば嘘になりますが、この時に非日常だった感覚が今や日常になろうとしていますし、自身の知覚が捉えた世界は時代に関わらず揺るがないものだなとも思います。

 音楽とは何かを問う思考の種となれば幸いです。

〇「空耳散歩 #01」

https://cheerforart.jp/detail/3043

新年のごあいさつと『世界の調律』新装版発売のお知らせ。

 コロナ時代も早3年目となり、この2年間は原点に立ち返る貴重な機会ともなりました。コネクトならではの「密度の濃い時空間」がなかなか作れずに試行錯誤が続きますが、映像制作やオンラインセミナー、読書会など新たな可能性も開けています。空耳図書館コレクティブでは6人の専門家(サウンドスケープ、野口体操、音楽療法、音楽人類学、手作り楽器・美術、手仕事)が知恵を出し合うかたちで新たな展開を始めています。ミュージックハブ的な役割も果たしていきたいと思いますので、FBの専門ページもどうぞお気軽にフォローしてください。

 新年早々にはサウンドスケープの哲学から新しいオンガクのかたちを思考実験する『即興カフェ』を始め、昨年9月の東京芸術劇場社会共生セミナー『もし世界中の人がろう者だったら どんなかたちの音楽が生まれていた?』(出演:牧原依里、雫境、ササマユウコ)で、ろう者の皆さんにもご紹介したR.M.シェーファー主著『世界の調律〜サウンドスケープとは何か』が新装版で念願の再販となりました(店頭販売は7日、ネットは11日から)。
 セゾン文化の仕事を離れた80年代の終わりに池袋のリブロでこの本に出会い、2011年の東日本大地震を機に原典と共に読み直し深く関わってきた大事な本でしたが、途中で絶版となっていたので嬉しい限りです。試論としての矛盾も孕む音楽のようなシェーファーの森羅万象を見事に翻訳された1986年当時の若き研究者たちの熱量も伝わってくる名訳です。ちなみに田中直子さんは高校の先輩、若尾裕先生とは2016年に下北沢B&Bにて新井英夫さんと座談会を開催させて頂きました。
 シェーファーが昨年8月に亡くなったことで、地元カナダのメディアやNY Timesは氏に作曲家、作家、音の環境活動家の順で3つの肩書きを付け、生まれながらに視覚障害があり8歳で片方の目を摘出したこと、本来は画家志望だったことも伝えていました。今の若い人たちにはオーディズムと誤解されそうな表現の数々は差別意識とは対極で、目から耳へと知覚をシフトして音楽家として生きるシェーファー自身の決意表明もあったように思います。なぜならサウンドスケープの概念は「社会福祉」にもつながると本著でも示唆されていますし、何よりシェーファーは権威を嫌うオープンマインドの持ち主だったからです。
 いずれにしても21世紀も「音楽」を問う主要な一冊として長く読み継がれていくことでしょう。一見すると難しい専門書のようですが、オンガクの内と外をつなぎ、世界と柔らかに関わり直す哲学書でもありますので、是非パラパラと目についた章から読んでみてください。
Sonic Universe!(邦訳:鳴り響く森羅万象に耳を開け!)
 ※ シェーファーを日本に紹介し早逝した作曲家・芦川聡さんの追悼『波の記譜法』も1986年出版されています。
 ※シェーファー/今田匡彦(弘前大学)共著『音さがしの本 リトル・サウンド・エデュケーション』(春秋社)は発売中。
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