地域作業所「カプカプ」18周年祭りに参加して、考えたこと@横浜・ひかりが丘団地

ミロコマチコさんとカプカプーズ作の顔出しパネル撮影会
ミロコマチコさんとカプカプーズ作の顔出しパネル撮影会

体奏家/新井英夫さんと絵本作家ミロコマチコさんが隔月でワークショップを行っている地域作業所カプカプ。毎年9月になると開店記念のお祭りが行われます。新井一座では毎年好例、オリジナル・ダンスの「新作発表」をするのですが、今年は「カプカプ八木節スリラー」が午前午後、計4回にわたり「飛び入り大歓迎」で、地域の皆さん、見学者を巻き込んで団地の商店街で賑やかにお披露目されました。
 コネクト代表の本業は音楽家ですので、この日もワークショップ同様に太鼓や音具で参加させていただきました。実は2011年3月以降、「音を出すことの意味」を見失ってしまって、数年間ほとんど音を出さずに「サウンドスケープ(耳の哲学)」を通して「音楽とは何か」という問題と向き合ってきました(その続きにコネクト活動があります)。それが様々な偶然が重なって、特にこの「カプカプ」の新井一座との出会いを通して、今あらためて「音を出すこと」や「音楽すること」のチカラを噛みしめています。何よりこの1年半近くの自身の心境の変化は、当事者研究としても大変興味深いので、また日をあらためて考察しようと思っています。
 コネクトのオフィスがある相模原市では、7月に公共の福祉施設内で大変残念な事件が起きてしまいました。段々と明らかになる犯人の「障害者」への認識、その犯行動機等がどうにも「間違っている」と感じますし、もしかしたら防げたかもしれない悲劇だと考えると、犠牲になられた皆様のご冥福を心からお祈りすると共に、本当に「残念」という言葉しか見つかりません。そしてこの事件をきっかけに福祉施設が「安全」のために地域から閉ざされ、最も大切な「安心感」が失われてしまうことへの懸念もあります。

店頭の売り物「植木鉢」と太鼓を使った新井さんとメンバーの即興セッション
店頭の売り物「植木鉢」と太鼓を使った新井さんとメンバーの即興セッション

 カプカプ祭りはみんなで商店街で踊って「音を出す」行為です。それは自分たちの存在を周囲に知らせ、受け入れてもらう「儀式」でもあると思います。常日頃の信頼関係が無ければとても成立しない場です。昨年はじめてお祭りに参加した時は、団地の日常空間に向けて非日常の音を出すことに正直ドキドキしました。けれどもそこで実感したのは、カプカプは地域に愛され、受け入れられているという安心感でした。もちろんここで働く愛すべき個性豊かなメンバーたちも含め、所長の鈴木励慈さん&まほさんが日々「誰にとっても居心地のよい場所」をつくろうと、地域にひらかれた喫茶店を拠点に周囲への心使いを重ねてこられた結果です。ひとりひとりの「顔」がみえること。オープンな雰囲気であること。その中での日々の積み重ねが、この「奇跡の一日」を可能にしている。祭りは開店記念であると同時に、この作業所がこれからも変わらずに商店街に「ひらかれる」「受け入れられる」という安心感を共有する場でもあると思いました。
 大きな変化ほど、すぐには結果が見えづらいものです。延々と同じことが繰り返されるような辛抱や、それなりの時間が必要になる点は子育てと同じだと思います。それでも小さな変化が、一年後には本当に想像もしなかった一歩につながっていることがある。もちろん、同じように自分自身も目に見えない小さな変化を重ねている。それは「年を重ねる」ことであり、そこには「出来ること&出来なくなること」の両方が含まれる。ある日突然、その変化に気づく瞬間がある。その時に私たちはオロオロしながらも、’障害’のある/なしの境界線を越えて、最後は「みんな同じ」になっていくのだろうと、長い目で人生を見られるようになるのです。事件の犯人のような優生思想に陥りがちな人には、時間と共に変化する自己/他者、何より「想定外」という概念が、生きる時間からすっぽり抜け落ちている気がします。

最後は地域の人も見学に訪れた人もみんな巻き込んで。
最後は地域の人も見学に訪れた人もみんな巻き込んで。

誤解を恐れずに言えば、カプカプには「弱い人」はいません。他の作業所に馴染めずに集まった人が多いとききますが、それは彼らの根底にある「アーティスト」としての魂がきちんと息をしているからだと思います。人が個性を認められ、ありのままに受け入れられることで生まれる「安心感」こそが生きることの幸福感だと思いますし、人を強くもします。むしろ今は誰もがそんな「居心地の良い場」、本当の自分でいられる場を切実に欲しています。それは相模原の犯人も同じだったかもしれない。あの事件は決して「福祉の場」に限られた特殊な事件ではないと感じています。人は関係性が固定化した環境に置かれた時に、息苦しさを感じるのではないかと思います。家族、学校、友人、会社・・・いちど固まってしまった関係性を柔らかくするのは容易ではありません。逃げ出すこともままならない。そういう時に本来は「芸術」が大きな力になってくれるはずでした。一枚の絵から、一曲の音楽から、一本の舞台から、当たり前だと思っていた関係性や価値観が揺さぶられる。はじめて出会う価値観、知らなかった世界を知る。例えば、かつての芸術には行政的指標や評価に関係なく、息苦しい日常の「外側」に出て、ゆっくりと深呼吸のできる場が(公共の劇場であっても)存在していました。のんびりした時代だったと言えばそれまでですが、システムや法の整備だけでは、ましてやロボットでは決して代わることが出来ないのが芸術や福祉の領域の奥深さだと思います。
 このカプカプに間違いなくあるのは信頼関係に基づいた圧倒的な「表現の自由」です。そして「世話をする/される」という関係性をはるかに越えた複雑で面白い人間模様。誰もがほっと息のつける柔らかなザツゼンさがある空間。まさにそれこそが人間関係の「芸術」だと思うのでした。(ササマユウコ)。

リズム感抜群の彼にはいつも「適わないなあ」と思う。
リズム感抜群の彼にはいつも「適わないなあ」と思う。

 

●カプカプの詳細については、カプカプ発行『ザツゼンに生きる~障害福祉から世界を変える カプカプのつくりかた』をご覧ください。

 

カプカプひかりが丘
http://www.facebook.com/kapuhikari/