【考察レポート5-1】空耳をきく方法を考える。

その① コネクト活動の考察から

4月に弘前大学今田匡彦教授を招いた「哲学カフェ」。
4月に弘前大学今田匡彦教授を招いた「哲学カフェ」。

■はじめに
この15年で音楽を取り巻く環境は大きく変化した。パソコン、そしてスマホの登場はプロとアマの境界線を外し、録音音楽をモノからデータへ、音楽家の作品の在り方そのものを大きく変容させた。

個人的な話で恐縮だが、2000年に信州国際音楽村でピアノソロCD「空ノ耳」を録音した。当時はPCも無く、宣伝も最低限の紙媒体のみの小さな作品集だった。が、幸い口コミが広がり現在もNYから世界配信や有線放送から国内外で細々と聴かれているから有難いと思う。CDジャケットにはガラス作家の熊沢桂子さん、写真やデザインは現在一線で活躍する友人たちが「手仕事」で協力してくれた。録音は台頭し始めていたデジタル音源へのアンチテーゼとしてアナログ機材の無修正一発録音。タイトル曲の「空ノ耳」は、即興で弾いた主旋律が「ソラミミ、ソラミミ」となったことからの後付だった。「耳と心を空(から)」にするという意味合いもあった。
メールもインターネットも携帯電話も無く、どうやってあの作品を作ったのかを思い出す。録音準備で信州には半年近く通った。今の「アート・プロジェクト」的な方法論だったが、助成金制度は無かった(いや、あったのかもしれないが、情報を得る手段が無かった)。「ワークショップ」というコトバが少しづつ浸透し始めてはいたが、有名なクラシック音楽家でもない限り、公共ホールは無名のアーティストには門戸を開かない時代でもあった。特に地方と東京の心身の「距離感」、所属するコミュニティでの情報格差もあった。上田駅に着くと、渋谷では絶滅したはずの「ヤマンバ女子高生」がいて(わからない方は検索を)驚いた記憶がある。制作資金は1作目の売り上げに劇場のバイト代を補い、まずはホールに手紙を書くことから始めた。自分が何者かを証明するためには第1作目の小さな評価と、実際に現地でピアノを弾いてみせる以外なかった。
作曲は今は亡き祖母の家に泊まりながら、なるべく現地で行った。現在難病と闘っているが元気だった叔母やホール職員の皆さんのご協力、地元の方たちと一緒にラベンダーのポプリを作ったり、お漬物やお茶を頂いたりしながら、子ども時代に過ごした夏休みの記憶をたどり、道端でスケッチをするように音に変えていった。タイトル曲の「空ノ耳」はそうした中で、ふと「天から降りてきた」ように出来た作品だ。正直に言えば、すべてを録音し終えた後に「おまけ」で弾いた即興演奏である。それをタイトル曲にしたのだからちょっと申し訳ない気もするし、知らない人のブログで「「空ノ耳」を大音量で向かいの山に反響させて聞いてみた」と書かれていて、妙に納得もした。それくらい自然で、実は何も「表現」していない音の連なりである。もともと「空耳(ソラミミ)」というコトバは、ずっと筆者の心を捉えてきたコトバだった。オトも字面も意味も気に入っている。タモリの「空耳アワー」ではなく、どちらかと言えばオノ・ヨーコの「グレープ・フルーツ」の影響をうけている(したがって間接的にはジョン・ケージの偶然の音楽)。シリーズタイトルの「Peace&Quiet」はシェーファーの『世界の調律」に出てくる「平和と静寂」という言葉が、世界中に存在するという一節から取った。これは英熟語としては「嵐の後の静けさ」というニュアンスである。同時に「非アカデミック」であることには拘っていた。プロフィールは名前以外は公開しなかった。とにかく「先入観」や「固定観念」から自由になりたかった。音になりたかった。

■なぜ「空耳」か?

コネクト活動も2年目に入り、前回の考察では芸術を「ウチとソトの関係性」とあらためて定義した。しかしそもそも、コネクトは代表者が東日本大震災後に弘前大学今田研究室との出会いで深めたサウンドスケープ哲学を背景に始めた芸術活動であり、代表個人が思索を深めれば当然その結果は活動に反映されていく。進みながら成長するような、とても流動的な活動だ。
特に昨年の秋頃からぐっと個人活動が深まり、コネクトを公共性を伴う社会活動として捉えるのが何とも不自然な状況が続いた。矛盾した話だが、無意識に「公私」として分断していた「コネクト」と筆者個人がつながりだしたのだ。とは言え、「コネクト=ササマユウコ」ではない。コネクトは、音地図を俯瞰するように「内(芸術)」と「外(広義には社会、狭義には都市郊外)」の関係性をテーマにしたユニークな芸術活動の提案や紹介の場でありたい。時には黒子に徹することも全く厭わない。但しそこに代表者の「審美眼」は介入させたいと思う。この場合の「美」とは何かと言えば、関係性がサウンドスケープ的に調和しているか否かに尽きると思う。時にはノイズでも構わない。そこに関わる人たちが「心地良く息をしている」か。特定のジャンルではなく、直感的に「面白い!」と思える関係性は、芸術家/研究者に限らず積極的に紹介したいと思う。したがって、代表というよりは「キュレーター」の方がしっくりくるかもしれない。

NPO法人らいぶらいぶ主催「ベビーフェスタ」空耳図書館から「音のおはなし」
NPO法人らいぶらいぶ主催「ベビーフェスタ」空耳図書館から「音のおはなし」

●ちなみに、この半年間の「空耳活動」の主だった事業をざっくりとメモ。
・11月~継続中「キクミミ研究会~身体とオトの即興的対話を考える」(新井英夫×ササマユウコ)

・12月 アーツ千代田3331のレジデンスアーティスト(Jan&Angela、スイス)
非言語コミュニケーション即興共同制作「音を奏でる身体~動く音響」(ササマユウコ)
・3月 平成27年度子どもゆめ基金助成事業
 「空耳図書館のはるやすみ」(橋本知久&外山晴菜)

・2~4月泥沼コミュニティ主催「ホーム/アンド/アウェイ」年内巡回展予定あり
  関連企画 サウンド・インスタレーション「はしもとの空耳~その音風景は内であり外である」展示(ササマユウコ×西郷タケル)、ZINE作成「路上観察学会分科会通信0号」(編集・デザイン鈴木健介、執筆:鈴木、山内健司、ササマユウコ)
・弘前×音楽哲学カフェ「’きこえない音は存在するか~花のひらく音をきく」開催
 (今田匡彦(弘前大学)、鈴木モモ(ストリングラフィ)、ササマユウコ)
(さらに5月に公開される聾者ふたりの共同監督映画「LISTEN」の宣伝協力、夏にはキクミミ研究会での若尾裕先生招聘イベント「生きることは即興である」も控えている)。

 

これは個人とコネクトの枠を外した活動のメモだが、俯瞰すると「空耳」を軸にひとつの「調和された世界(サウンドスケープ)」が紡がれ始めているのを実感する。「オンガクの内側」に閉じていた筆者自身が外の世界とつながり始めた「当事者研究」の結果が出始めている。したがってコネクト2年目は、「空耳をきく方法」を考えるワークショップや哲学カフェ、研究会の実施もミッションに加えたいと思う。

■「空耳」とは何か?
説明の順序が逆になってしまったが、ところで「空耳」とは何だろうか。手元の国語辞典(集英社)によれば「①実際には音がしないのに聞こえたような気がすること。②聞こえないふりをすること」と説明されている。ちなみに視覚の場合は同じ使い方で「空目」と言うらしい。

もちろん、コネクトで使う「空耳」は①の意味に限りなく近い。しかしそれは「幻聴」や「思い込み」の類ではなく、想定外をきく耳の想像力、つまり自分の意志で「実際にはきこえない音を能動的にきく耳(姿勢)」と定義したいと思う。これは先日の哲学カフェのテーマでもあり、「きこえない」と「存在しない」は同義ではないことは念を押したい。「音」は記憶の中にも存在するし、実際に音が存在していても「耳」がキャッチしなければ「きこえない」。一方で西洋哲学の源流とも言えるムジカ・ムンダーナ(宇宙の音楽)やインドヨガ哲学のオーム(聖音)などは、人間の耳が実際に音を捉えたわけではなく、あくまでも調和や根本原理を見出すための「哲学としての音風景」を意味する(「オーム」は声を使うが)。それは聾者のオンガクを考える際にも通じる世界観だし、そもそも「音楽とは何か、何が音楽家」の根幹テーマに立ち返る。

サウンドウォーク(音の散歩)やリスニングウォーク(ききあるき)を体験するとわかるけれど、「耳慣れた」はずの日常の音風景に、あらためて意識的に耳をひらき、耳を澄ますことで「気づく音」というのは誰にでも必ず存在する。しかも同じ世界を歩いているようで音風景は耳の数だけ存在する。つまり世界には「正解」が無いのである。耳の内側と外側、自己と他者の世界が「きく」ことでつながったとき、そこに生まれる世界観や関係性は驚くほど多様で柔らかく、どこか寛容な空気を生む。

 

「きく」ことは「見えないもの」の存在に気づき、全身でとらえ、触れる力だ。何より耳の穴は無造作に世界にひらいている。だから本当は特別な訓練をしなくても、自らの内側と外側は常に「きく」でつながっている。もちろん耳の穴だけでなく、全身の皮膚感覚や骨の振動、視覚的なリズムや身体そのものの、水の揺らぎでも「きいて」いる。
ところが「きかない」ことは「きく」ことよりもずっと簡単なのだ。耳を塞がなくても(たとえ鼓膜や体内が振動していても)、意識を遮断すれば聴覚の有無に関わらず「きこえない」。それはしばしば「存在しない」と混同される。ましてや「空耳をきく」ことを止めてしまえば想像力は消え、当然「想定外」が生まれる。
「きこえる/きこえない」の境界線には人の思惑が渦巻いている。「空耳」をきくためには、まず心と耳を空にして「内と外に耳をひらく」ことから始めなければならない。ちょっとしたコツをつかめば、例えば喧騒に包まれた街中でも静寂がきこえてくる。その先にある「存在しなかった音」に気づくかもしれない。結局「きこえる/きこえない」を取捨選択するのは耳の内側である。シェーファーはそれを「内側からのサウンドスケープ・デザイン」と呼び、自分を取り巻く環境(外の世界)と内発的に関わることを促す。それは騒音に埋め尽くされていく世界、この時代の社会や人の「在り方」への警告でもあった。

「空耳」が失われた社会はどこか息苦しい。想像力を失った耳は内側に閉ざし、外側の世界を「想定外」として遮断する。分断されていく。その先に何が起こるのか?その恐ろしさをすでに私たちは、あの2011年3月に経験していることも忘れ始められている。

【追記】M.シェーファーの「空耳」
ここでご紹介しておきたいのがコネクトの根幹となる「哲学書」である。カナダの作曲家M.シェーファーは米ソ冷戦による核の脅威や環境破壊が懸念された40年前に、耳から世界を捉え直すことを提唱すべく『世界の調律~サウンドスケープとは何か』(The Tuning of the World)を出版した。この「哲学」を実践的に学ぶための100の課題集『サウンド・エデュケーション』が後に鳥越けい子、若尾裕、今田匡彦(敬称略)の訳で日本先行出版される。そして、このテキストの’子ども用’として出版されたのが、俳句等の日本文化を取り入れたシェーファーと今田匡彦氏との共著『音さがしの本~リトル・サウンド・エデュケーション』(春秋社 増補版2009)である(写真)。文字のない絵本を身体や音で楽しむコネクトの不思議な読書会「空耳図書館」も、この本の課題「現実にはない音に気づく」や「絵の中の音」から生まれた。
ちなみに「空耳」というコトバはこの本には一切出てこない。これは100番目の課題「ここからは、あなたがアイデアを考える番だ」に従った筆者のオリジナルである。「空耳」の同義表現としては前述の「現実にはない音に気づく」のほか、「空想の音」「幽霊音」などがある。

その他の書籍としては『センス・オブ・ワンダー』(レイチェル・カーソン)、『グレープフルーツ・ジュース』(オノ・ヨーコ)、『ソニック・メディテーション 音の瞑想』(ポーリン・オリヴェロス)『聴くことの力~臨床哲学試論』(鷲田清一)等は、哲学カフェ等でも必ずご紹介している。
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(2016.5.1 ササマユウコ記)

♪「空ノ耳」の視聴は YouTube→