【考察レポート4】 ところで、ゲイジュツってなんでしょう?

町田市のアトリエ・アルケミストの「食」で人をつなぐ場「喫茶小鳥室」。入り口はアトリエの延長として。
町田市のアトリエ・アルケミストの「食」で人をつなぐ場「喫茶小鳥室」。入り口はアトリエの延長として。

2014年の秋に’コネクト’という「芸術活動」を始めてから、意識的に「ゲイジュツ」というコトバを口にしている。それまではどちらかと言えば照れくさくて、あえて声に出すのを避けてきたコトバだった。
今も「ゲイジュツ」というコトバほど受け取る人の内側に既に何かしらの「イメージ」があって、好き嫌いや価値の分かれるコトバは無いような気がしている。しかもその反応は年代や性別、その人が生まれ育った文化的背景によっても違うし、本人が芸術家だからこそ「嫌い」だと述べる人、反対に全人生を賭けている人もいる。
ひとつのコトバが人と人の間に「境界線」を引くことで、社会にある種の生きづらさや閉塞感を生むことはよくある。「あの人は芸術家だから」という表現の中には尊敬から揶揄まで様々な思惑が含まれている。それは「芸術」だけでなく、コネクトのもうひとつの枕詞である「教育」についても同じことが言えるだろう。しかし、というかだからこそ、コネクト活動には「ゲイジュツ」という旗を掲げていく。そうしなければいつの間にかこのコトバは内側に閉じこもり、日常生活からも今の社会からも消えてしまうのではないかと漠然とした不安を感じているからだ。それは同義とされる「アート」も同じだと思っている。
社会に余白があった時代の「ゲイジュツ」は積極的に社会と境界線を引き、そこから「逃げる」ためや「反抗する」ための役割も果たしていた。「自由」というコトバへの幻想もまだ生きていた。しかし「社会と距離を置くゲイジュツ」は、2011年3月の東日本大震災後に社会を覆った「自粛」ムードで危機的状況を迎える。逆に言えば何かしらの「社会的な役割」を担うことで、やっと存在が許されるような状況だった。ゲイジュツに「目的」や「正解」が求められ、はたまた「手段」に使われる。公共の劇場や美術館が学校になっていく。もちろんそれ自体は決して悪いことではないが、どこか「あそび」が減り、芸術家も疲弊し、息苦しさが増していった。しかも社会は容赦なく、ある日ゲイジュツに手の平を返すのだという不信感は今もぬぐえない。それは「想定外」というコトバと共に一生忘れられない2011年の記憶となった。

同年の秋、風邪と熱でぼんやりした頭のまま弘前大学の研究室を訪れた時の自分をふり返る。あの時の心境は大げさではなく「絶望」という二文字しか見当たらない。それくらいゲイジュツ(音楽)を取り巻く状況を「コトバにして考える」ことを欲していたが、それこそが「哲学」だとはまだ気づかなかった。しかし、M.シェーファーのサウンドスケープ思想を背景に「音楽(芸術)とは何か、何が音楽(芸術)か」と問い続ける弘前には直感的に感じるものがあったし、それを「希望」と呼びたいと思った。そして5年が経ち、「ゲイジュツ」は「内と外をつなぐ柔らかな関係性」であり、その関係性を築く「技術」のことを「アート」と呼ぶことにして、コネクト活動も2年目となる。

「スモークハムをつくろう!」では塩澤珠江さんご夫妻を講師に招いて。
「スモークハムをつくろう!」では塩澤珠江さんご夫妻を講師に招いて。

さて、前置きが大変長くなってしまったが、「ゲイジュツは内と外の関係性である」と定義したところで、今回のテーマ「ゲイジュツって?」の答えは出てしまったようにも思える。しかしこれは筆者が考える芸術であって、もちろん正解はひとつではない。そもそも正解はないはずなのである。
そこでもうひとつの「問い」を立ててみる。ではその「関係性」をつくる媒体(メディア)や手法は何だろう?と。音楽(する)、絵(を描く)など、むしろこのメディアや手法を「芸術」と呼ぶ方が一般的ではないだろうか。

しかし結論から言えば、つまるところ媒体や手法は「実は何でも良い」のではないだろうか?というのが最近の筆者の考えなのである。大切なのはやはりその「関係性」の「質」や、そこに立ち現れる雰囲気の「肌理(きめ)」の方である。
「きめ」というコトバが出たので、真っ白な「豆腐」を媒体に例えて考えてみる。まず木綿豆腐と絹豆腐のどちらを使うか。これが「料理」の場合は何かしらの「正解」はあるだろうが、芸術の場合は正誤では判断しない。木綿、絹どちらでも良いのである。むしろ好みの固さも、食べ方も人それぞれだということを知る。包丁で几帳面にさいの目にする、手で割る、手法はどちらでも構わない。豆腐そのものを「つくる」という考え方もあるだろう。どちらにしても「おいしい」は基本である。でも素人の自家製豆腐の「おいしい」と、高級料亭の豆腐の「おいしい」は違う。ひとりで食べる、みんなでワイワイ鍋にして食べる。それぞれ感じる「おいしい」も違う。

豆腐とゲイジュツを一緒にするなと本気で怒るひともいるだろう。しかし豆腐をテーマにした背景に「哲学」があり、なぜ豆腐であるかの「動機」があり、例えば「湯豆腐を食べる」その場のつくり方にアート・プロジェクトとしてのコンセプトがあれば、その豆腐を介して生まれる関係性は「ゲイジュツ」と呼んでもいいかもしれない。
ハイアートは日常から非日常に、高級豆腐料亭の敷居よろしく「境界線」をまたぐ。一方、限界芸術はその町に昔からある豆腐屋のように日常の延長線上に存在する。ワークショップやアウトリーチは、お豆腐屋さんがラッパを吹いて売りにきてくれるようなものだ。反対に作り手の顔が見えないスーパーで売られる豆腐の運命は、手に取った人の技(アート)に全て委ねられる。しかし、豆腐は豆腐である。
さらに複数の人が集まる場では、想定外の問題がおきることもあるだろう。例えば「湯豆腐は木綿に限る」という人、「絶対に絹だ」と主張する人がいる。そういう時は「理屈」を並べる前に「まず食べてみる」ことでお互いの「違い」を身体感覚で受け入れる。それを「多様性」と呼び、柔らかな関係性につなげていく。そこから「どちらもおいしい!」「やっぱり木綿がいい」など、「対話」が生まれることもゲイジュツの醍醐味である。逆に言えば「湯豆腐には絹豆腐が正解です」と決めつけ、最初から木綿を排除するような思考はコネクトが考えるゲイジュツからは最も遠い。もともと豆腐が苦手な人に対しても諦めずに、「水切りして揚げる」などの「ひと工夫」をこころみる。
しかしここに第三者の「評価」が伴い、「売上高」や「安全性」等が絡み始めると話は途端にややこしくなる。「おいしい」の基準は関係性で変わることは自覚しておく。

燻製は温度管理が何より大事。今日はいつもより小さな道具を使う。
燻製は温度管理が何より大事。今日はいつもより小さな道具を使う。

豆腐つながりの話だが、たとえばコネクトネットにご参加頂いている町田市のアトリエ・アルケミストで生まれる「食」のこころみにいま注目している。アルケミストは娘もお世話になった佐藤由樹子さんが主宰する「美術の」アトリエだ。いつ足を運んでも変わらない「場」の清潔感と居心地の良い空気感は放っておいても生まれるものではなく、絶え間ない技(アート)であると思っている。
そして、この心地よい美術のアトリエでは時どき「食」にまつわるイベントやワークショップが開かれていて、昨年にはついに同じ敷地内に「小鳥喫茶室」という小さなオーガニック・カフェまで誕生した。ここでの「食」は、アトリエに集う人たちとの「関係性」から生まれていることも興味深い。だからこそ、アルケミストの「食」はあくまで「美術」の延長線上に存在している。
なぜ「食」なのか?と尋ねると、「美術が好きというわけでもない人たちともつながれるから」と佐藤さんは語る。さらにこの数年間、ご自身が「口に入れるもの」を意識的に変えたことで実感した身体の変化、アトリエに通う子どもたちの生活と食の「見過ごせない関係性」も、この場を通して少しづつ伝えていきたいとも。

ちょうどこの日は「スモークハムをつくろう!」をテーマに、ご近所にお住まいの塩澤珠江さんご夫妻から、15年の試行錯誤から生まれた「自家製ハム」の作り方を学ぶ企画が開催されていた。実に一週間前から仕込みが始まり、燻製も3時間に及び、その後2時間のボイル、さらに一晩寝かせるという本格派。煙の匂いや火の調節、道具の使い勝手...ハムづくりは手と勘どころ、五感をフルに活用した芸術活動である。「おいしい」はヒトとモノの理想的な関係性から生まれていく。昔は当たり前に行われていたはずの、今となっては贅沢な時間ですらある「冬の保存食づくり」は、本来は冬を生きぬくための技(アート)なのだとも気づかされる。郷土食がコミュニティの絆を深める理由も見えてくる。

クッキーづくり。かたちが出来上がるまでは手の内側の世界。
クッキーづくり。かたちが出来上がるまでは手の内側の世界。

考えてみれば、料理の手順の中には「まぜる、こねる、切る、成型する、焼く」など美術や工芸と共通する手のしごと、道具との関係性、プロセス等が多く存在する。火や水も相手にする。しかもその先に「おいしい」が待っているのだから、出来上がりを待つまでの時間、みんなの会話も自然と弾み笑顔になる。アトリエでの美術作品づくりが自分の内側と向き合う個人作業だとすれば、「食べる」ことは、自分の内と外の世界をつなぐ時間とも言える。もちろん美術作品も、出来上がった後は外側とつながる媒体になる。この日もひとりで成型したクッキーをお父さんに手直しされたと泣いていた女の子が、クッキーが焼き上がった後はみんなに楽しそうに配っていたのが印象的だった。つくる過程では内側の世界にあったクッキーが、オーブンから出した瞬間から外側とつながるための媒体に変身している。女の子は「みんなにクッキーをあげる」ことで他者とつながることを楽しんでいた。その関係性づくりこそがゲイジュツだと、いつかアトリエの方で気づく日が来るのだろう。

「おいしい」は幸福な関係性を象徴するコトバだ。そのコトバを生み出すのは、おむすびひとつ、クッキー1枚、豆腐一丁でも可能だ。大事なのは、つくる人、食べる人、そこに関わる人たち全てのつながり方である。’限界’ではなく日常の「真ん中」にある「食」を通した関係性の芸術。この日はハムを媒体に集まった人たちの中に「何かが立ち現れること」を望んでの企画だったと思う。もちろんそこには技を教える’アーティスト’としての塩澤夫妻の存在が欠かせない。しかし面白いのは、その「食の場」に生まれた質感や肌理は、やはり美術のアトリエにあるそれと同じだということだ。それこそが個性豊かな人たちが集う「アトリエ・アルケミスト」の日常の中で培われ、日々磨かれている佐藤さんの技(アート)なのだと言えるだろう。
(ちなみにスモークハムづくりにはウール製の上着は着ないこと。匂いのつかない素材がおすすめである。そしてこれはアートではなく、知識)。

※「コネクト+」では今後も、サウン
ドスケープ思想と親和性の高い「リレーショナル・アート(関係性の芸術)」や社会性の高い「コミュニティ・アート」、アートミーツケア学会の「臨床哲学」等について、引き続き考えていきたいと思います。  (2016.1.30 ササマユウコ記)