考察レポート2-2 「芸術教育のアウトリーチ~学校の日常と外をつなぐ」

フランスでは150回以上演じられている山内健司さんの「舌切り雀」
フランスでは150回以上演じられている山内健司さんの「舌切り雀」

〇正解のない世界

 目に見える「結果」や「効果」が出にくいのも芸術教育の特徴です。子どもたちが元気に盛り上って終わると周囲の大人たちは「正解」を得たように思いますが、アウトリーチでは静と動、喜怒哀楽、さまざまな感情や身体を体験して芸術(家)の世界に触れる時間であり、終わり方も本来ひとつではないと言えるでしょう。時には数年経ってから(子どもがおとなになってから)、芸術家によって蒔かれた種が心の中でふと花開く場合もあるはずです。実際に桜美林大学の現場には「小学校時代に出会った芸術家のアウトリーチが強く記憶に残っていて、いま芸術を学んでいる」と話す学生もいました。ですからアウトリーチの結果には基本的に「正解」がないのです。前述のように芸術家が用意したプログラムの通りに、時間通りに終わったからと言って成功したとは言い切れません。そこにどのような「質」の時間がつくられたのか、その時間が参加者全員で共有されたか、結果よりもプロセスが大事だと感じました。現在の教育(学校や塾)では子どもたちは常に正解を求められ、本心を隠して「期待に応えた意見」を述べる大人顔負けの処世術を身に着けている場合もあります。先生たちも指導要領や評価にしばられ「正解」ありきの教育が求められています。しかし(概ね社会に出てから気づくことですが)、世の中には学校では教えてくれない「正解のない問題」の方が圧倒的に多い。その問題との「関わり方」を学ぶ方法のひとつに芸術教育やアウトリーチがあるはずです。

 例えば今回のアウトリーチで印象的だったのは、「好きなスポーツは?」と芸術家から質問が投げかけられた時に、「ありません」と答えた子どもを芸術家が「受け入れた」瞬間です。授業では「好きな〇〇は?」と先生に聞かれたら、何かしらの「正解」を口にするのが得策でしょう。相手の質問を断ち切るような答え方はコミュニケーション力の不足と取られ、あげく「空気を読め」とも言われかねない。だから「ありません」と口にすることは子どもにとっても勇気が必要でしたし、その答えが芸術家に快く受け入れられたことは驚きでもあったようです。その時の子どもの表情から、普段いかに子どもたちには「正解」が付きまとっているのかを実感しました。求められている価値観を抜け出し、自分の心の内側と向き合い、そこから「外」に目を向けていく。自分とは違う意見を持った他者、違う国に生まれた人、違う教育を受けた人。時にはぶつかり合い、受け入れながら、内と外をつなぐ多様な関係性とは何かを学ぶ場でもあります。

  芸術は基本的に「正解のない世界」です。芸術家の世界感が好きでも嫌いでも、本当にどちらでも構わない。理解できなくてもいいし、理解しなくてもいい。アウトリーチでは大きな声で元気よく、はきはきしなくてもいい。気の利いたことを言わなくてもいい。いつも笑顔でなくてもいい。美しく踊れたり、楽譜通りに歌えることが「正解」ではない。身体技術は芸術表現には欠かせませんが、芸術そのものではないのです。

 変わった服装や髪型をしていることがあっても、芸術家は決して「ずるい大人」ではありません。権力やお金は持っていないかもしれないけれど信頼できる大人たちです。真摯に人生と向き合っていて、五感も身体感覚も言語も研ぎ澄まされています。例えば神話や昔話には「良い人」か「悪い人」かもわからない人物がたくさん登場します。特に「神様」と言われる人たちは見た目も不思議だったり、困った人だったり、時には我ままだったりもします。その神様の不条理さを受け入れていると、ある日突然、素敵なことが起こったりします。もちろん芸術家は神様ではありませんが、「芸術の時間」には神様に似たようなところがあります。その時間を信じて、関ってみることに大きな意義があるのです。

 さらに芸術教育だけでなく、(ダンサー、俳優、ピアニスト等)やホールスタッフといった「仕事」の存在や「生き方」の多様性を学習する機会ともなります。頭を抱えてしまう話ですが、芸術家が全国の学校をまわる中では子どもたちから「ところで仕事は何ですか?」「(揶揄するように)年収はいくらですか?」と質問されることがあると言います(しかもこの質問が向けられるのは、アウトリーチの「質」に関わらず男性の芸術家に多い)。もちろんこれがすべてではありませんが、経済最優先の日本社会の根底にある芸術(家)への認識を象徴するエピソードだと感じます。芸術家が「生きづらさ」を感じる世の中は、生き方に画一的な「正解」を求める教育や学校によってつくりだされた「内」だけの何とも息苦しい社会と言えるでしょう。

 一方、矛盾するようですが経済格差による貧困層が増え続け、金銭的な余裕のない家庭にとって芸術は、ますます遠い存在に追いやられてしまう危惧もあります。本来の芸術教育は専門教育である以前に、想像力や創造性を養って豊かに生きる力を学ぶ全的教育です。これからのアウトリーチには、子どもたちがまず学校の内側で、平等に芸術と出会う権利についてのミッションも加わることでしょう。同時に芸術を専門的に学ぶ学生たちにとっては、芸術の外(社会)の価値観に触れ、芸術至上主義に陥らずに専門性を高めることの必要性を痛感する場ともなるでしょう。そして何より、アウトリーチが芸術家の経済的基盤となるような安定した教育の仕組みになることを願います。

〇まとめ・未来の社会を見つめて

 先日「おさるのジョージ」を観ていたら面白い発見がありました。ジョン・ケージの「偶然の音楽」を模したコンサートをN.Y.のアパートの屋上で開催することになったジョージと現代音楽家が、楽器にする日用品を集めに街に繰り出すエピソードです。商店のおじさんは「芸術に協力が出来るなんて光栄だな」と快く店で使われなくなった鍋を提供します。街の住人たちが芸術を愛していることが数々のエピソードから伝わりますし、このテレビを観た子どもたちは「芸術活動を支援することは社会的に誇らしいことだ」と知らぬ間に教育されていくのです。しかもコンサートが劇場ではなく、暮らしの場で行われることを住民たちは受け入れ楽しんでいます。

 学校でのアウトリーチも、一日の大半を過ごす子どもたちや先生にとっては日常の中で起きる非日常です。もちろん「学校」をもっと大きな社会から見つめ直した時、そこにある独特のルールやコトバには特殊性も存在します。だからこそアウトリーチを成功させるためには、まず劇場と学校それぞれの内を知る必要がありますし、学校には芸術(家)を暖かく受け入れる雰囲気が大切です。それには学校と劇場、先生と芸術家のコトバを通訳するコーディネーターの存在が重要となります。繰り返しになりますが、芸術家は「先生」ではありません。アウトリーチはカリキュラムに則った「授業」とも違います。

 芸術家は学校や先生にとって、もっと言えば社会的には「非日常」の存在です。アウトリーチについて不安があるかもしれません。しかし不安なのは芸術家も同様なのです。コーディネーターは双方の「内」をつなぐことで不安を解消し、良好な関係性をつくる役割です。芸術のアウトリーチは本来、そこに関わる人たち全員にとってクリエイティブで心踊る活動のはずです。双方の日常と非日常をやわらかにつなぐ寛容さは欠かせません。

 今回は特別支援学校の中で、芸術家に臨機応変な対応が求められる場が何度か見られましたが、その状況を即興的に「楽しめる」のが彼/彼女たちの最大の強みだとも思いました。障害のある/ないを自然に飛び越えられるのも芸術の強みです。子どもにとっても「優劣」や「完成度」とは違う尺度で褒められる体験は貴重です。芸術家と子どもたち双方の日常から少しだけ外に出た世界には、芸術の本質が潜んでいるとも感じました。何より日常の中で発見する非日常には、時には劇場で体験する作品以上に驚きや発見が凝縮されていることもあるようです。特に障害のある/ないの境界を越えたアウトリーチは、そこに流れる時間そのものが「関係性の芸術(リレーショナル・アート)」でもあり、誰もが暮らしやすい社会のモデルが存在するとも思うのでした。

 日々アウトリーチを重ねていく中で、いつの間にか子どもたちが大人になり、彼らと関わった芸術家が研究対象になる例も出てきました。特に小学校の高学年は10年も経てば大人の仲間入りです。プルヌスホールが設立10年を迎え、舞台芸術の世界で様々な結果を出し始めていることも「継続した時間」と無関係ではありません。先日訪れた京都芸術センターは、設立準備の時に地域コミュニティを含む’100年先‘を見越した討議が重ねられました。地元に愛された小学校がアートセンターに生まれ変わり再び地域にひらかれ、国内外に前衛アートを発信する拠点となる。この先鋭的な芸術活動の仕組みを支えているのは、他でもない廃校になった小学校の卒業生を中心とした地元のボランティアです。100年続く芸術活動にはまず第一に「人のつながり」が欠かせないと思いました。

 プルヌスホールのアウトリーチは「劇場=大学」という特殊なケースでした。派遣される芸術家の質の高さは、大学の専門性や人材が十分に活かされた結果だったと言えるでしょう。「芸術/芸術家ー大学/劇場ー地域/学校」が時間をかけて信頼関係を築きながら、何より芸術がニュートラルに存在できる清々しい場でした。現在都心の舞台で活躍している卒業生たちが、これからの10年に指導者として大学や地域社会に戻ってくる可能性もあるでしょう。

 大学が公共性のある芸術教育プラットフォームとしてひらかれ、地域の子どもたちや学校に芸術を届ける意義とは何か。その答えは(正解ではなく)アウトリーチを経験した子どもたち、そこに参加した学生や実習生たち、そう遠くない未来の地域社会からきっと見えてくるはずです。

(2015.1 ササマユウコ記)

※今回のレポートにあたり、2014年9月~12月に行われた全14回の「アウトリーチ実習」カリキュラムの中から9回の現場を訪ねました。プルヌスホール職員、アーティストの皆様には多大なるご協力とご理解を頂きましたこと、この場であらためてお礼申し上げます。

 

Thanks to:大森智子(ソプラノ)×田村緑(ピアノ)、森下真樹(コンテンポラリーダンス)、

     能祖將夫(朗読/PAI企画制作ディレクター)、

     サクソフォンカルテット桜(サックス四重奏)、山内健司(演劇)、岩下徹(コンテンポラリーダンス)、鈴木ユキオ(コンテンポラリーダンス)、中川賢一(ピアノ)、

     笠井瑞丈×上村なおか(コンテンポラリーダンス)(見学順)

 

参考文献:『教室の犀』M.シェーファー著  高橋悠治訳  全音楽譜出版社 1980

               『芸術立国論』平田オリザ 集英社新書 2001

     『新しい広場をつくる~市民芸術概論綱要』 平田オリザ 岩波書店 2013

     『ワークショップと学びⅠ まなびを学ぶ』苅宿俊文他 東京大学出版会 2012

     『学校と社会』J.デューイ著 宮原誠一訳 岩波書店 1957

  資料:『音楽アウトリーチとコミュニケーション』児玉真(地域創造プロデューサー

      桜美林大学アートマネジメント講座資料 2014