【考察レポート2-1】「芸術教育のアウトリーチ~学校の日常と外をつなぐ」

 桜美林大学プルヌスホール 文化庁平成26年度「大学を活用した文化芸術推

 進事業 アウトリーチ実習」の取材を通して

○はじめに

  昨今の大学は社会人入学や生涯学習も盛んで、一昔前に比べればキャンパスもだいぶ身近な存在になりました。「相模女子大学グリーンホール」「和光大学ポプリホール鶴川」など、都市郊外には大学がネーミングライツ契約を交わした公共ホールも見られます。しかし大学構内にある劇場や美術館は、公開されているにも関わらず周辺には意外と知られていない場合もある。専門的な研究や教育活動は外側からは見え難く、建築的にもどこか閉じられた印象のある大学に対して、地域の人が心理的なハードルの高さを感じることは、まだまだ多いのではないでしょうか。

 大学は教育機関であると同時に研究機関でもあります。優れた人材(教員、講師)や専門性も内包され、それは地域社会の「知的/文化的財産」とも考えられます。一方、少子化による学生減少は大学にとっても深刻な課題ですから、その「財産」を積極的に外にひらき、まさに「生き残りを賭けて」行政や市民との連携の中で新しい役割を見出そうとする試みも増えています。コネクトのオフィスがある「ユニコムプラザさがみはら」も、日本初の「市民・大学交流センター」として、大学の研究や教育活動を市民とつなぎ地域課題にフィードバックする仕組みづくりを目的に2013年に設立されました。

 今回の「コネクト+」では、地域の芸術教育プラットフォーム(拠点)として注目する「桜美林大学芸術文化学群」プルヌスホールの活動を取材させて頂きました。このホールはネーミングライツ型ではなく「教室でもあり劇場でもある」大学施設として、淵野辺駅前キャンパス内の研究機関「パフォーミング・アーツ・インスティテュート」が運営しています。第一線で活躍するプロを講師陣に、俳優、ダンサー、舞台制作/技術スタッフ等の実践的な後進育成や成果発表、学生自治による公演が行われています。2011年に岸田戯曲賞を受賞した藤田貴大さん(マームとジプシー)、2014年のフェスティバル/トーキョーで「春の祭典」を総合演出した白神ももこさんを始め、近年の卒業生たちの活躍も目覚ましい。もちろん専門教育だけでなく、生きる教育としての芸術教育が学生それぞれの選択した人生で花開き、周囲にも認知されていくには一定の時間と継続性が必要だということが、2003年開館からの10年間に見えてきます。

  さらにこのホールの活動に注目する理由がもうひとつあります。今や夏の風物詩となった市民群読劇「銀河鉄道の夜」、5日間の継続プログラムが展開される夏休み子供向けワークショップ「劇場であそぼう」等、大学の内(ウチ)だけでなく、積極的に外(ソト)にひらいていく姿勢です。ホールが媒介となって大学と芸術とを同時に地域にひらき、つなげることで生まれる様々な関係性からは、都市郊外の新しい暮らしや教育の在り方も見えてきます。

 多様な年間事業の中から、今回はホール職員がコーディネーターとなって芸術家と共に大学/ホールの「外」に実際に出かけていくアウトリーチに注目しました。この事業の主な対象は、相模原/町田市内の小学校や特別支援学校の子どもたちです。さらにこのアウトリーチが特徴的なのは、地域の子どもたちや学生に向けた教育活動であることはもちろん、市内を始め都近県のホール職員や市民プロデューサーを対象に「大学を活用した文化芸術推進事業」(文化庁助成)の人材育成プログラムを兼ねている点です。公募された現役ホール職員を始め「実習生」は貴重な学校現場を体験し実践的にアウトリーチを学ぶことができます。この文化庁プログラムは「アートマネジメント講座」や「企画制作講座」などが複合的/多角的に構成され、大学内外の芸術家や専門職員を講師に翌年3月まで続きます(2014年度)。今回は全13回のプログラムのうち9回の現場に足を運びました。地域の身近な小学校の内側で、優れた芸術家と子どもたちがつくる「芸術の時間」には、大きな喜びを感じると共に学校教育の未来の姿も示唆されていると思うのでした。

 以下、芸術/大学のアウトリーチで築かれるさまざまな関係性、またその意義についてコネクト+の視点から広く考えてみたいと思います。

 

〇プルヌスホール事業の詳細につきましては、専用サイトをご覧ください。

※劇場/ホールを「劇場」、アーティストを「芸術家」、ウチを「内」、ソト「外」と統一表記します。

〇アウトリーチの目的と種類

 まず一般的に、劇場が外に出かけていくアウトリーチの「目的」とは何でしょう。日常の中に非日常を届ける「芸術活動」であることは大前提ですが、大きく分けて以下の二つだと考えます。

 ひとつは、劇場の存在を地域に知ってもらう「広報/普及活動」。そしてもうひとつは芸術家もしくは劇場独自のプログラムによる「教育活動」です。特にこの「教育活動」は、平成24年度に施行された「劇場、音楽堂の活性化に関する法律(通称:劇場法)」によって劇場の社会的役割が明確になり、全国の劇場でも今後の展開が期待される活動です。なぜなら、子どもたちへの教育活動は廻り廻って劇場や地域の未来を変えるとも考えられるからです。しかもプルヌスホールの場合は「劇場=大学」のアウトリーチですから、地域社会にひらかれた劇場とともに、芸術教育の拠点としての大学の在り方も示唆しています。

 子どもたちは芸術家と学生を通して「芸術」や「大学」に親しみ、アシスタントとして参加する学生は子どもを通して「プロの手法」を学びます。先生は学校教育とは違う「芸術教育」を知り、今回の実習生には社会的な学びがありました。何より講師を務める芸術家にとって劇場の外の世界は、表現の幅を広げ人間的なしなやかさや深さを養い、社会とつながる貴重な場となります。「舞台と客席」という一方向の関係性ではなく、アウトリーチはそこに参加する誰にとっても「学び」や「気づき」のプロセスが存在する多重構造の教育活動なのです。

 プログラムの「種類」も大きく分けると二つあります。コンサートや演劇などの「公演型」と、芸術家がファシリテーターとなって(子どもたちが主役となって)動く「ワークショップ型」です。授業だと「鑑賞型」か「体験型」となりますが、どちらに比重を置くかは、劇場スタッフが担うコーディネーターが学校の希望をくみ取りながら芸術家と調整します。経験値の高い芸術家ほど教育的な視点を内包した「複合型」のプログラムになるようです。 

 しかし芸術家が学校の意向をどこまでくみ取るかは、その個性(考え方)によります。あくまで芸術に徹して「教育的」な視点を排除することも芸術のひとつの在り様だと考えます。アウトリーチでつくられる時間の「質」は、芸術家の力量も大事ですが、先生と子どもたちの日常の関係性、当日の天候や子どもの体調、学校(先生)と芸術の関係性、当日の時間割や校内の音風景(BGMやチャイム)など、学校全体の「雰囲気」をつくっているさまざまな条件が絡み合って決まっていくのだと感じました。特に学校のサウンドスケープ・デザインについてはまた別の機会で考察してみたいと思いますし、あくまで個人的な感想ですが、休み時間に大音量でテーマパーク系BGMを流し続けている学校は、休み時間後の子どもたちの雰囲気がなかなか落ち着かない傾向があることが気になりました。対照的に山間の静寂に包まれた小さな学校は、子どもたちも集中して芸術家の静かな声や周辺の音に耳をすまし、課題に取り組む様子が印象的でした。

学校に芸術家がいる風景(相模原市立中央小学校にて)
学校に芸術家がいる風景(相模原市立中央小学校にて)

〇芸術家がつむぐ時間

 ダンサー、俳優、音楽家(ピアニスト、声楽家)。いつもの教室や体育館に見知らぬ大人がいて、ストレッチをしたり音を出している自由な雰囲気だけで、学校に非日常の風景が生まれます。固定されやすい日常に違う角度から光が差し込み、風穴があいて新鮮な風が通り抜けるような感覚です。アウトリーチの時間は経験からチャイムを止める習慣となった学校では、そこに生まれる静寂から学校全体が非日常感に包まれます。ウェルカムボード作成や事前学習など、先生が上手に子どもたちの期待感を上げている学校はアウトリーチも良い雰囲気で進むことが多いです。先生は監視役ではなく、むしろ子どもと一緒に「芸術の時間」を楽しむ姿勢の方が、子どもたちもリラックスできるようです。芸術家が許している限り、アウトリーチの最中に「静粛」を求めるような声かけは必要ないと感じました。先生には芸術家がつくりだす「時間」の質を読み解き、その世界感をサポートするような役割が求められると言えるでしょう。

 そして導入部では、芸術の種類に関係なく芸術家がまず「演じてみせる」ことが非常に重要だと思います。子どもたちは、たとえ数分でもプロの芸術家がつくりだす世界感を全身で受けとめ、これから始まる時間の「質」を一瞬にして理解するからです。目の前にいる見知らぬ大人は「先生」ではないことを知り、これから始まる時間は「授業」ではないのだと感じる。子どもたちと芸術家が言葉を越えてつながる大事なプロセスです。ちなみにここで提示される世界感には「沈黙」や「不条理」など、学校の日常生活ではどちらかと言えば否定的に捉えられがちな、しかし人生の中では不可欠な要素が含まれる場合もあります。

 舞台には‘ハプニング’がつきものですし、アウトリーチも例外ではありません。しかし芸術家が準備したプログラム通りに進行することが最大の目的ではなく、たとえ予定通りに進行されなくても質の高いアウトリーチになる場合もあります。特別支援学級ではいつもと違う教室の雰囲気に驚いて泣きだしてしまう子がいますし、普通学級では元気でやんちゃなグループもいます。ワークショップ型では、当日の子供たちの状態によって用意したプログラムを大胆に変更したり、時にはその場で即興的に組み立て直す能力が要求される場合もあります。日頃の舞台で培われた芸術力が発揮されるのは、プログラム内容の完成度そのものよりもむしろ、予期せぬハプニングが生まれた場かもしれません。プログラムの進行には予め余裕をもった時間配分が必要です。

 芸術家は「やりたくない」という子どもに「強要」することはありません。むしろ「やりたくない」という子どもの気持ちを否定せずに受け止めてくれる存在です。最初は驚いて泣いていた子どもが芸術家と関わるうちに、いつの間にか楽しそうに踊ったり歌ったりする場面は多々ありました。特に繊細な子どもたちが心をひらくには一定の時間が必要です。日頃は先生に「音が苦手=音楽が嫌い」と思われていた子供が実は誰よりも敏感な聴覚の持ち主で、芸術家の良質な音(音楽)には集中して聞き入る場面も珍しくありません。先生はその様子に驚き、その瞬間、子どもたちとの固定された関係性が良い意味で揺さぶられます。小さな声でも落ち着いた雰囲気で丁寧に話す芸術家の声には、子どもたちが集中して聞き入る姿も印象的でした。

 もちろん芸術家の個性は様々ですし、今回訪れた9回のプログラムもそれぞれが舞台作品のように個性的でした。芸術家としての資質はもちろん、彼/彼女たち自身が受けた教育やアウトリーチの経験値もプログラム内容に大きく影響していると感じます。芸術家はあくまでも自分たちの「内」の世界感を劇場の「外」に運び、子どもたちに紹介する媒介者です。「楽器」や「物語」や「身体」を通じて(それが最終目的ではなく)、その先にある「芸術の世界」に導く役割を担っています。何より制約の多い「学校」に積極的に関わろうとする芸術家には、自覚の有無に関わらず教育者としての資質も感じとることが出来ました。プロとして鍛えられたダンサーの身体や動き、音楽家や俳優の発声や演奏技術には、人間存在そのものの言葉を越えた説得力があります。ですから、芸術家がファシリテーター役となる場合も、できれば導入部で世界感を提示することが、その後の子供たちとの関係性をつくる上で有用だと考えます。

 プログラム内容については、子ども用にアレンジする/しない、学年によって内容を変える/変えない等それぞれですが、芸術家には揺らがない「軸」があると感じました。舞台上の作品世界でもアウトリーチでも、結果的にそこに生まれる時間の印象が変わらないのです。今回のように大学が選定し派遣する芸術家たちの信頼感、現場に対する真摯な姿勢は言うまでもありません。自分に対して本気で向かってくる人に対して、人は真剣に向き合わざるを得ない。子どもたちは芸術家と対峙することで、一方通行ではないコミュニケーションの基本についても学んでいるのです。またアウトリーチは、現代の生活スタイルや遊び(ゲーム)で変化した子どもたちの身体感覚や五感を本来の状態に近づける、子どもが自分自身と向き合う時間とも言えるのです。

につづく(ササマユウコ記)