【考察レポート6】 「アウトサイダー・アート」を考える

「アウトサイダー・アート」というコトバからどんな印象を受けるでしょうか?考えてみればアートそのものが社会の「アウトサイダー」的存在にも関わらず、その中にさらに「アウトサイド」が存在するというのはなかなか複雑です。まるで「マトリョーショカ」のように入れ子になった内側が次々出てくるような、もしくは波紋のようにどこまでも外側に広がっていくような多層の世界が浮かんできます。「インサイド」はいったいどこからで、誰が境界線を引くのか。最近ずっとこの「アウトサイダー・アート」をめぐる「ウチとソト」のあれこれを考えています。

 日本語で受けとめる「アウトサイダー」には差別的な印象もあるせいか、2020年の東京パラリンピックを見据えた文化プログラムでは、よりポジティブな印象の「アール・ブリュット(生の芸術)」というコトバが意識的に使われているようです。本来はフランスの美術家ジャン・デュビュッフェの造語だった「アール・ブリュット」というコトバ(と考え方)を、イギリス人のロジャー・カーディナルが「アウトサイダー・アート」に翻訳したという経緯があるのですが、日本では反対の流れになっていることが興味深い。しかもコトバの誕生から40年近くを経たいま、もはや両者は同義語なのかという問題もあります。同じく40年前に生まれた「サウンドスケープ」というコトバも同様ですが、「造語」が本来の意味を離れて独り歩きを始めた時、想定外の使われ方を生む場合があります。コトバの「イメージ」が誤解や曲解を招き入れながら、国境を含むさまざまな境界線を越え、いつの間にか本来の意味が失われていたり、時代や社会の変化とともに新たな意味が付加される。日本で紹介されている「外来語」には、様々な「内と外」や文化・社会・時代的背景が含まれていることは常に自覚したいと思います。
 ウチ(Inside)とソト(Outside)。どちらが「ウチ」でどちらが「ソト」か。それが語られる視点がどこにあるのかを知ることは重要です。例えば美術界の外側(一般の人)が「アウトサイダー・アート」と口にする時、美術の内側で語られるコトバとは意味合いが同じでしょうか。美術教育の「型」にはまらないから、障害者のアートだから「アウトサイダー・アート」だと直線的に定義する人も少なからずいます。一方で「障害の有無」「正式な教育を受けているか否か」にかかわらず、美術界のインサイド(学閥、派閥、因習、流通等)や国のシステムから距離を置き、インディペンデントに活動するアーティストの「在り方」を称する場合もあります。ちなみに本来の「アール・ブリュット」の定義は「美術的訓練や文化的影響を何ら受けていない個人による、イメージを作り出そうとする内なる激しい欲求のみによって動機づけられた自発的な創作活動」とあり、特に障害者アートを指したコトバでは無いことは明記したいと思います。
 結局「インサイド/アウトサイド」は、語る人の視点の数だけ存在するということがわかってきます。例えばシェーファーが著書で提唱した「内側からのサウンドスケープ・デザイン」は、俯瞰的ではなく音楽の内側から発せられました。コトバはまず音楽関係者に、そこから波紋のように外側に広がりました。しかし国内で使われる「アウトサイダー・アート」の場合は、前述の通り「アートの外側」の事情から「アール・ブリュット」に微妙に置き換えられ、社会の中でもねじれた状態で中途半端に認知されているという印象があります。
 世界は「自己と他者」「芸術と社会」「芸術家と研究者」「日常と非日常」といった内外を、コトバを主な媒体につながったり分断したりしながら、有機的にかたちをつくっていきます。それは波紋のような同心円ではなく想像以上に複雑なかたちです。何より「この私」の中にも「心と身体」の内と外があり、専門の内と外があり、日常と非日常に至っては他者の日常が非日常にもなる。もちろん内/外だけではなく、表裏、新旧など、さまざまな対立構造が存在します。しかし「正解」はないのです。本当はどちらが「ウチ」で、とちらが「ソト」かは誰にもわからない。社会の価値は驚くほど簡単に反転することもある。だから現在「アウトサイダー・アート」と評価されている作品が、永遠に「アウトサイド」にあるかどうかもわかりません。

 このコネクト活動は、2011年の震災以降、それまで筆者の創作の軸としていたサウンドスケープ論を「内と外の関係性」を考える「耳の哲学」と捉えなおして、その「考え方」を実践してみる場としてきました。ただし筆者自身は「インサイド」ではなく俯瞰的な考察ができるように、個人の音楽活動はコネクトの外側に置いてきました。すると不思議なことに音楽家としての「個人」がどんどん自分から離れて「アウトサイダー」になっていくのです。また普段は接点のない異分野アーティストたちとの交流から「イン/アウト」が立ち現れる経験もありました。それはとても不思議な感覚であると共に、震災後に見失いかけていた自分の「インサイド」が(音楽)であることを強く意識する貴重な経験ともなりました。

 同じ「芸術/アート」の世界でも、例えば演劇、美術、ダンス、音楽ではコミュニケーション方法や使用するコトバの感覚が微妙に違いますし(メールの書き方ひとつでも)、そこを越えていくことは実は簡単ではありませんでした。むしろ科学や哲学よりも「似て非なる」関係性の方がコトバの違いを理解できないことがある。アートの中には、ひとくくりに出来ない多様な「イン/アウト」が存在することは大変興味深い発見でした。ただしその通底には目に見えない「インサイド感覚(仲間意識)」が存在し、異分野のアーティストたちを柔らかくつなげていたことも事実です。面白いことに、そして矛盾するようですが、それこそが「私たちは社会のアウトサイダーである」という共通の感覚だったかもしれません。平日の昼間に路上観察をしたり、同じものを見て、美しい、面白いと思える利害関係のない「共感」そのものにインサイドを発見することもありました。
 話題を「アウトサイダー・アート」というコトバの問題に戻すと、まず国内での定義が曖昧なため、今後ますます「障害」が絡む場での使用が控えられるかもしれません。例えば「エイブル・アート」「ボーダレス・アート」、「マージナル・アート(境界線)」、「コミュニティ・アート」といった他のコトバに置き換えられる可能性もあります。一方で「アール・ブリュット」がパラリンピックを通して、「障害者アート」に特化して広く認知されていく可能性もあります。どちらにしても、東京パラリンピックを前にコトバのイメージだけが独り歩きする危険性があります。

 例えば、山下清やヘンリー・ダーガーの作品から受ける「畏れ」にも似た強い印象も「アウトサイダー・アート」や「アール・ブリュット」特有のものだと感じます。しかしそれはゴッホや岡本太郎の作品、プリミティブなアートや民芸品、仏像や教会のイコン、民俗芸能や神事に対峙した時の印象と同質です。それを考えると「障害の有無」がコトバを定義する決定的な要素ではないと感じます。作品の内発性も「芸能」に関しては重要ではないかもしれません。むしろ「誰」が「アウトサイド」に「アート」を発見し、その外側にある「インサイド」につなぐのか。そこにアーティストが存在するのか否か。そもそも「イン/アウト」の境界線はどこにあるのかという、この記事の最初の問いに立ち返ります。それは映画『FAKE』で描かれた聴覚障害の作曲家とゴーストライターの関係性や、福祉チャリティ番組は「感動ポルノ」だと障害者側から揶揄があったように、どちらを「アウトサイド」と捉えるかによって、アートの性質そのものが大きく変わるという問題を孕んでいるからです。「アウトサイダー・アート」を読み解くには「仲介者の意図(事情)」が重要な鍵を握っていることは間違いないはずです。
 今後2020年に向って、美術だけでなく音楽や舞台芸術、特に障害者をめぐるモノ・コト・ヒトが、「アール・ブリュット」というコトバによって括られ、にわかに注目される機会が増えていくでしょう。先日のリオ・パラリンピックの閉会式には、すでにその予兆がありました。受け手である私たちが今後気を付けなければならないのは、その「アート」が生まれたプロセスを見極めていくことだと思います。どこに境界線が引かれ、何を分断し、またはつなげているのか。コトバの行方と共に注意深く見守りたいと思います。

 生まれつき障害のある人は、「生まれつき」なのですから本来は「障害」だとはわからないはずです。しかし世界は常にマジョリティ「みえる/きこえる」のインサイドであり、そこから外れたマイノリティに「アウトサイダー」のレッテルを貼りたがります。そこで初めて当事者は自分が「マイノリティ」であることを意識させられる。「障害」は「数の問題」でしかないのではとも思うのです。しかし「アウトサイド」を決める権利がマジョリティにある限り、世界はいつまでたってもいびつなかたちをしています。障害者だけではなく、「アーティスト」のように既成の社会の枠組み(経済システム)からはみ出したマイノリティは「インサイド/マジョリティ」からの認定が無い限り「アート」と認められないのは理不尽です。しかし繰り返しになりますが、「内」と「外」の反転はいつでも起こる可能性がある。特にこの国ではこれからの超高齢化によって心身の障害や病気を抱えた人が増え、障害に関しては「イン/アウト」の数が逆転するかもしれない。世界は常に表裏一体だと感じますが、現段階では「インサイド」が「アウトサイド」の境界線を引いている現状があります。

 ちなみにシェーファーは、サウンドスケープ論が「社会福祉」とつながる可能性を著書『世界の調律』の中で示唆しました。また「目の見えない人の世界」を知る必要性を音楽教育の『サウンド・エデュケーション』の課題として取り上げています。「世界の捉え方」には多様な切り口があることを知ることは、どこか息苦しい世の中に風穴を開ける可能性を含んでいます。そして芸術には本来、社会の「余白」や「避難所」としての存在意義もあることを忘れてはならないと思うのです。全てが「インサイド/マジョリティ」のシステムに取り込まれてしまった途端に「輝き」を失ってしまうのが芸術の特性です。「アウトサイダー・アート」というインサイドのレッテルを常に疑い、境界線を越えるもの/あえて越えさせないものをアウトサイド側から精査する必要がある。「ウチとソトを柔らかにつなぐ関係性」には、「イン/アウト」双方に冷静な姿勢と、ある種の’駆け引き’も必要なのではないかと感じます。そして「アール・ブリュット(生の芸術)」はデュビュッフェの定義のとおり、アウトサイドと言われる側の「内発的で自発的な」創作活動であり続けて欲しいと思います。

 余談ですが、最近の現代美術には媒体として「音」が使われる作品も多く、その発想は非常にサウンドスケープ的だと感じています。実際にオンガクを演奏・作曲するのではなく、「音の風景」を考える哲学は音楽よりも美術領域での親和性が高いようです。それは同時に、もしかしたら筆者の考え方も非常に美術的で、音楽家としては「アウトサイダー」ではないか?という自己への新たな問いも生まれてくるのでした。「内と外を柔らかにつなぐ」第一期3年間のコネクト活動も、早いもので残すところあと半年少しとなりました。引き続き、自発的な考察を続けたいと思います。(ササマユウコ記)

※以下は「アウトサイダー・アート」を考えるのにおすすめの5冊です。