聾CODA聴②境界ワークショップ研究会

2017年度アートミーツケア学会青空委員会公募助成プログラムとしてスタートした「聾/聴の境界をきく」(メンバー:雫境×米内山陽子×ササマユウコ 主催:CONNECT/コネクト)。

第1期の課題と展望を踏まえた第2期が9月9日よりスタートします。ご興味のある方は若干名でえはすが以下のリンクより募集いたしますので、お気軽にご参加ください。但し、通常のワークショップではなくアーティストの研究会であることをご了承ください。
聾CODA聴②「境界ワークショップ研究会」FBイベントページ

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あいちトリエンナーレ「表現の不自由展、その後」展示中止をめぐって

芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト(代表ササマユウコ)の見解。
 現在この問題は、憲法、芸術、文化政策、政治思想、アーティスト、批評家等、さまざまな視点や立場から日々声明が発表され、地方都市の芸術祭を越えた社会問題に発展しています。日を追うごとに明らかになるのは、「公共の芸術祭に公人が介入し中止に追い込まれた」’弾圧’や’検閲’の構図よりも、顔の見えない市民からの抗議電話や脅迫FAXの’暴力’に運営側が屈したという事実が、今後の様々な社会に大きな影を落とすのではないかという懸念です。これは上から押さえつけられるよりも根が深い。市民自らが自主規制し「表現の自由」を手放す国はもはや民主主義とは言えません。14日現在、新たに海外からの9作家が「展示の再開と表現の自由の擁護」を求めて展示辞退を申し入れています。
 今回どのような抗議や脅迫が寄せられたのか。’プロパガンダ’と批判する人たちにも納得のいくように、開催から中止に至るまでのプロセスや予算表も含めての展示、表現の自由とは何かを「考える場」が芸術として昇華された上での再開を強く望みます。もちろんオープンな場であると同時に、セキュリティの確保は必要不可欠です。運営側の柔軟な対応こそ、芸術(祭)の可能性をあらたに提示できる機会になるかもしれません。ただしそれには芸術外部のディレクターだけでなく、芸術の力をきちんと知り尽くしたプロのキュレーターの参画も求めたいところです。

 コネクト(=ササマユウコ)は政治的思想は中立とし、表現者の視点から「表現の自由とは何か」について考えていきたいと思います。検証委員会が立ち上がり、公開質問状への回答も発表され、ジャーナリスティックにも日々状況が変る話題ですので、基本的には即時性のあるFacebookで検証していきたいと思っています。


2019年8月14日 芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト 代表:ササマユウコ

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聾CODA聴 ワークショップ研究会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年度アートミーツケア学会青空委員会公募プロジェクトとしてスタートした「聾CODA聴の境界プロジェクト」第2弾のお知らせです。9月9日(月)14時から16時にワークショップ研究会を開催いたします(場所:アーツ千代田3331)。第1期の活動からみえた課題や展望をテーマに、雫境(聾/身体、美術)、米内山陽子(CODA/舞台手話通訳)、ササマユウコ(聴/サウンドスケープ思考)がそれぞれの活動から話題を提供し、オープンでコレクティブな場をつくっていく予定です。
詳細は8月19日(月)にFacebookページにて。ご注目ください。

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空耳図書館おんがくしつ♪「きのこの時間」を実施しました。

 去る7月18日、平日朝の明治神宮で空耳図書館おんがくしつ「きのこの時間」を実施しました。この日はサウンドスケープの提唱者M.シェーファーの誕生日に因んだ「World Listening Day」。毎年「Global Community Event」としてAcoustic Ecology(音響生態学)を掲げるアメリカの非営利団体からWorld Listening  Projectの「テーマ」が発表され、世界各国でテーマに沿ったイベントが自発的に実施されホームページやSNSでシェアされます。参加資格も特になく、サウンドスケープのオープンな思考に共感し主旨に賛同した人たちが、音楽/アート、環境学、フィールドレコーディング等、さまざまな領域の境界から自由に参加できる「祭典」です。
 2019年のテーマは「LISTENING WITH」。コネクトでは案内役を「小日山拓也(美術)×ササマユウコ(音楽)」が引き受け、参加者と共に「きのこのある風景」を「みるきく歩く」イベントを明治神宮で開催し世界の仲間たちとシェアしました。単なるきのこ探索ではなく、共に「みるきく考える=美術×音楽×哲学散歩」の時間です。歩き始める前に「内と外」がデザインされた「人工の森・明治神宮」を地図で俯瞰し、地形の起伏も意識しながら森のサウンドスケープ(周辺環境音も含む)をききながらのキノコ散策が始まりました。
 今年は長雨が続いたせいもあり、歩き始めると直ぐに次々と森のきのこが見つかりました。最初は「発見する喜び」に夢中になり「きのこそのもの」にフォーカスする時間が続きました。聞こえてくるサウンドスケープも原宿駅構内のアナウンスや電車の音、車の音や工事音等、視覚的には鬱蒼とした静寂の森が都会にあることを意識させられます。しかし「森の中心部=内」に入ると周辺のサウンドスケープが神聖な雰囲気へと変化し、きのこの「存在」にも新たな物語性が出てきました。静かな場所を選んで生息しているのか、音を聞いているか?といった擬人化です。時には「親(木)」を殺してしまう恐ろしい子どもにも見えてきました。
 個人的に興味深かったのはLISTENING WITHの「WITH」には「きのこ」も含まれていたということです。あとは「参加者ときのこの関係性」がそれぞれ違っていた点も視点が多角的になり様々な発見がありました。あくまでも「日常の延長線上」のリアルな存在として捉えている人、想像や思考のきっかけとして、芸術そのものとして捉えている人、「食べ物」として見ている人など。同じ世界でも内と外の境界線の引き方は様々です。それは実は世界に通じる「人間ときのこの関係性=文化」とつながることも参加者同士の対話から共有されていきました。さらに美術の世界の「みる」には、サウンドスケープの「きく=耳をひらく・耳をすます」と同様に「周辺的観察(目をひらく)/集中的観察(目を凝らす)」ような違いがあるという発見でした。それは時間の流れとも関係していて、最初はきのこに集中していた視点が徐々に広がり、きのこと周辺の関係性を読み解く見方に変っていきました。さらに理系・文系ふたつの世界、対象の認識方法が曖昧に混在していたように思います。これこそが、まさに芸術的。
 もともと西洋文化圏でのきのこは「野菜未満」とされ静物画の対象にも選ばれにくく、魔女と結びつけて忌み嫌う人もいればラッキーチャームになったり、狂言の「くさびら」のように異界の存在としても描かれます。しかもきのこは食用にも猛毒にもなる。現代の定義では人間もきのこ(菌類)も同じ「生き物」として分類されることも興味深いです。この境界領域的なキノコの存在感は「話題提供者」として本当に事欠きません。特に「キノコ=音」と例えた時、きのこのある風景を「みる」ことはサウンドスケープ思考の「きく」と同義で、非常に「耳の哲学」的だと思いました。予想以上にWorld Listening Dayにも相応しい企画になったのではないでしょうか。
 ちなみにM.シェーファーが影響を受けた現代音楽の巨匠J.ケージはキノコ愛好家(研究者)としても知られています。彼の著書『サイレンス』(柿沼敏江訳 水声社)の最後には「キノコに熱中することによって、音楽について多くを学ぶことができる。私はそういう結論に達した。」と記されています。確かに森の中にひっそりと存在するキノコたちの豊かな世界に気づくことは、日常と非日常をつなぎ、ミクロコスモスとマクロコスモスを行ったり来たりするような視点のダイナミズムが生まれ、とても芸術的な体験だと思いました。さらに「音楽とは何か」を考えた時、毒にも薬にもなる存在、周辺との関係性、外観の美や醜、そして何より「生から死まで」を比較的短い時間で凝縮して提示する在り方が何とも音楽的だと思うのでした。

 この夏の長雨もキノコたちから世界を見ることで少しも憂鬱になりませんでした。日常と非日常の間に位置し、想像力をかきたてるキノコの存在はまさに芸術や音楽と同じなのかもしれません。

 

We searched mushrooms and listened soundscape of urban forest in TOKYO. This was world listening day project 2019'LISTENING WITH' at 17/07/2019.


◎次回「きのこの時間」は10月21日(月)新宿御苑で開催します。詳細はFacebookで告知いたします。

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代表コラム「最期の音楽とは何か、を考えるということ」

【代表ササマユウコ個人FBからの転載です】

 ここ数年、七夕の時期に巡ってくるホスピスコンサート「Mother Songs」が無事に終了した(非公開)。気づけば10年11回目となり春には立派すぎる感謝状まで頂いてしまったが、この場から「音楽とは何か」と気づかされることは果てしなく、いつも感謝しているのは私の方だ。

 昨日は星や宇宙や生命に思いを馳せて'サウンドスケープ'のお話もさせて頂いた。病院の音楽療法士さんやボランティアさん、最近は患者さんにも手伝って頂いて、天井の高いガラス張りの空間に星空を響かせる。私はただ自分を無にして、この一期一会の音の風景に100年歌い継がれた小さな旋律を放つだけだ。それは祈りにも近い。静かで透明な時間だ。
 人は尊く、そして強いと思う。例え余命を知っても、星に願う事、音楽に震える心、そして笑顔を最期まで失わない。ベッドのまま運ばれて参加される方もいる。昨日は最後に宮沢賢治の「星めぐりの歌」を弾いた。コンサートのあと「まさかここで大好きな歌が聴けるとは思わなかった、ありがとう」と涙された方がいた。新顔のボランティアさんは「音楽をきくのではなく、眺めるということを初めてしました。楽しかった」と顔を輝かせていた。
 最初の数年はいわゆる通常のコンサートをしていた。私はピアニストであり皆さんに演奏を届けにきた、というある緊張感を伴う一方的な関係性だったと思う。死にゆく人たちに向けた音楽は「完璧でなければ」と感じていた。しかし10年の月日の中で私の音楽や考え方が変わっていった。死は特別なことではなく日常の延長であり、私の音楽もその風景の一部であればいい。一期一会の時間や出会いを楽しめばよいのだと。音楽は媒体に過ぎない。だから最初に「私はピアニストではなく、皆さんと一緒に音の風景を編む音楽家です」と自己紹介を入れるようにした。すると「受け身」だった会場の空気も一変する。緊張感が解け、別の集中力が生まれることを感じるようになった。お見舞いのご家族が一緒に音を出すこともある。
 音楽とは何かを考えることは結局、人とは、人生とは、生きるとは何かを考えることに他ならないと思う。実は毎年「今年で辞めようか」と思って臨んでいる場なのだが、来年も約束して病院を後にしていた。私はなぜここに来るのか。そこにピアノがあり、空間に静かに響き合うこの場の音の風景、関わって下さる人たちが好きだからなんだと思う。

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