ブログカテゴリ:コネクト通信10月号



2018/10/15
①「つなぐ」 ②「ひらく」はこちらからご覧ください。...
2018/10/15
 10月14日に開催された第6回「ユニコムプラザまちづくりフェスタ」に参加しました。...
2018/10/10
前回①「つなぐ」はこちらからどうぞ。  今回は「つなぐ・ひらく・考える」の「ひらく」についてご紹介します。ここにはユニコムの入居条件である地域活性化や地域貢献も視野に入れながら、コネクトの主な4事業をご紹介します。 ①ちょっと不思議な読書会「空耳図書館」...
2018/10/02
【告知】CONNECTのオフィスはユニコムプラザさがみはら(相模原市立市民・大学交流センターシェアード1)という公共施設にあります。10月14日(日)にはセンター全体で「第6回まちづくりフェスタ」(10:00~15:00)が開催され、ここで約5年間のコネクト活動をパネル展示でご紹介する予定です。興味のある方はどうぞ足をお運びください!当日は代表ササマユウコも会場に待機します(レジデンス・アーティストの沼下桂子さんも顔を出します)。【芸術と社会】展示の準備も兼ねて、このところ「CONNECTは何をコネクトしたか、しなかったか?」をふり返り、そして考えています。  「公共施設」を拠点にした「芸術活動」には何が求められていたのでしょうか。芸術を社会に「役立てる」ことでしょうか?そもそも「芸術」とは何か。役に立たないもの、無意味なものは芸術表現として認められないとしたら、この社会は幸せでしょうか。「想像する力」は人間に与えられた素晴らしい能力のひとつですが、「想定外」という想像力の限界はどうして生まれてしまうのでしょう。それは教育で解決できる問題でしょうか。CONNECT活動では「何を」芸術と呼んできたのか。そこに正解はあるだろうか?と、実は設立した時点からずっと「ひとり哲学カフェ状態」が続いていて、5年経った今も答えは出ていません。  今回のコラムテーマは「つなぐ」ですが、「CONNECT」という名前の通り、当初はみるみる広がっていく世界を追いかけるように、点から線に「つなぐ」ことで精いっぱいでした。その先に何が生まれるのかは全くの未知数でしたし、「つなぐ」ことが最善ではないと今も想い悩むことがあります。この活動の動機は研究中のサウンドスケープ論を音楽の外の世界で実践してみることでした。それは「音楽とはなにか?」「芸術とは何か?」という哲学的問いと向き合うこと。そこに「この活動が何かの役に立つのか?」という疑問は不思議とありませんでした。しばしば見られるこの「問い」は、実は芸術の外側から投げかけられる場合がほとんどだと感じています。  この活動が始まってから5年で社会は大きく変わりました。今も議論の最中にある「非生産性」という存在や活動に対して、自分の正義を掲げて厳しい言葉を投げかける人も増えました。オフィス地元の相模原市ではそれを象徴するような「やまゆり園事件」も起きました。この事件は誰にとってもショックが大きく未だ言葉に出来ませんが、障害のある人たちだけでなく、アーティストを含む社会の少数派(マイノリティ)の存在を揺るがすあってはならないことでした。犯人は自分もいずれ年を取り、筋力も視力も聴力も衰えて、犠牲になった人たちと限りなく近づく肉体を生きていることなど考えもしなかったのでしょう。ここでも原発事故時と同様の「身体性と想像力の欠如」を感じます。 【言葉と向きあう】CONNECTは有機的に進む芸術活動ですが、「ミッション」を言葉にして共有するプロセスは非常に大事だと思っています。なぜならこの世界は「言葉と文字」で出来ているからです。音楽家個人としてはなかなか認め難い事実ですが、社会はまず「言葉ありき」なのです。「ささやかな芸術」の存在意義を、関心のないどころか「必要ない」とさえ思っている外側の世界に伝えなくてはならない。文字をたくさん書かなくてはならない。「社会の言葉」を持たなくてはならない。なかなか修行に近い作業ですが、公共の施設に入って活動をあえて言葉で縛ることが深みや自由度を上げることも実感しました。悪いことばかりではありません。  しかし本当は「外向きの言葉」からこぼれてしまうような、人の内側から生まれた言葉のひとつひとつを掬い上げるような作業に、この活動の本質があると思っています。5年目になって、あらたなテーマに「人と人」を加えた理由もそこにあります。この5年間をふりかえると、アーティストや研究者という肩書き以上に、「その人」の存在、内側への共感が無くては成り立たない活動ばかりだからです。
2017/10/26
今年度の文化庁メディア芸術祭にも選出され、コネクトでもご紹介している聾者の音楽映画『LISTEN』。この上映会と哲学カフェをひとつにした「シネマ哲学カフェ」が上智大学で開催されます。音のないオンガクに耳を傾けながら、「音楽とは何か?」「聴くとは?」「芸術とは?」と対話をしてみることで、世界が少しだけ変わるかもしれません。聾者の方、一般の方もご参加頂けます。(手話通訳・筆談あり) 日時:2017年11月24日(金)18:00~20:10 場所:上智大学中央図書館9階921(L-921) お話:牧原依里、雫境 (『LISTEN』共同監督、手話通訳あり) 進行:寺田俊郎(哲学科教員、グローバルコンサーン研究所所員) 対象:一般、本学学生、教職員 ※要事前申し込み/参加費無料/先着50名 お問合せ・お申込み:グローバル・コンサーン研究所 電話03.3238.3023 http://dept.sophia.ac.jp/is/igc/
2017/10/16
「泥沼コミュニティがはしもとでしてきたこと」報告展示会開催日時:2017年10月15日(日)10時~15時 展示:泥沼コミュニティ 企画:芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト 主催:ユニコムプラザさがみはら
2017/10/12
●Facebookにイベント・ページが出来ました。http://www.facebook.com/deaf.coda.hearing  (@deaf.coda.hearing)
2016/10/28
 夏にご紹介したSUNDRUMにつづき、本日は多摩市立青陵中学校・合唱コンクール内プログラムで上演された舞台音楽家・棚川寛子さんと特別支援学級の生徒16名によるPKT(パフォーマンスキッズ・トーキョー)オリジナル作品『時を感じて・パフォーマンス』を鑑賞させて頂きました。(主催:アーツカウンシル東京、特定NPO法人芸術家と子どもたち 会場:パルテノン多摩・大ホール)。    3学年の合唱が終わると、ステージの奥には大きなステンレス・ボウルが3つ、手前には大太鼓、鉄・木琴、ウィンドチャイム、ピアノ等の楽器が、最前には長机が3台一列に並べられました。特別支援のプログラムは昨年まで「筝」の演奏だったそうですから、このセットから何が始まるのか誰にも予想できなかったと思います(筆者もです)。代表生徒による挨拶が終わると、3人の男子生徒たちが上手から登場し、ユーモラスな「無言劇」が始まりました。その非言語のやりとりが実に自然体で面白かった。やがて彼らが色とりどりのプラコップを取り出すと、机上で「一捻り」あるリズムを刻み始めます。すると、その音に合わせて残りの生徒が登場し、全員が机とコップと身体でリズムを刻みながら『上を向いて歩こう』を歌うのです。その後、各自セットされた楽器に移り、まずボウルが叩かれると一気に「ガムラン」の音世界が広がり、場の空気が一変しました。台所用品と吹奏楽部の楽器を使っているはずなのに、どこか不思議でアジア的な音の風景が生まれる。ドラの代わりに叩かれる大太鼓がアクセントとなって、大きな会場が心地良い音に包まれていくのを感じました。決して威圧的でも、一方的でもない。その悠然たる「オンガク」は客席に驚きと感動を持って受け入れられていることは、会場の空気や後方の保護者の語る感想からも明らかでした。そして最後には「合唱コン」らしく、絵本から詩を紡いだという子どもたちのオリジナル曲がピアノ伴奏とともに歌われ、会場は大きな拍手に包まれていました。  子どもたちが主役になった時間、それは棚川寛子さんの「アート(技術)」との幸福な出会いだったと思います。棚川さんによれば準備期間に実施した11回のワークショップのうち7回くらいまでは、子どもたちになかなか心をひらいてもらえず苦労したそうですが、回を積み重ねていくうちに徐々にリズムが揃い、音楽が立ち現れるその喜びを子どもたち自身が掴み取っていく手ごたえは感じていたそうです。しかしそこに「決定的なきっかけ」があった訳ではない。時間の積み重ねの中で、ゆっくりと子どもたちの内側にある芸術が開花することを信じて待つしかない、その信頼関係があったからこそ、今回の「音の力」が生まれたのだと思います。単に「上手く」演奏できている、音が揃っている、作品の質が高いという次元の話しではない。まさにそれが芸術の世界です。  もちろんそこには棚川さんのプロの「仕事」、彼女の優れた耳とセンスによる音の取捨選択(デザイン)があった。特に彼女の音楽性の根幹とも言える、楽譜を使わずに稽古場で即興的に演者の身体から音楽を生み出す手法、高い評価を受けているク・ナウカの舞台音楽を始め、その経験値の高さが子どもたちの即興性や音楽をうまく引き出せたのだと思いました。何より彼女によって選び取られた音そのものの力が、子どもたちの耳と心を自然にひらいていった。芸術家の想いを託され「やらされている」のではない、子どもたちは自らの意志で’パフォーマー’として存在していると感じました。それが会場にいた他の子どもたち、大人たちにも、「芸術」とは何かを考えるきっかけになっていたとしたら、これほど素敵なことはありません。  本来「芸術」の前では誰もが平等です。そこには様々な尺度があり、視点を変えると優劣の反転が起きる。合唱コンで整然と歌い競うことと、特別支援級の彼らが演奏し歌うことの何が同じで、何が違うのか。心に響く音楽とは何か。プロの仕事とは何か。さまざまな気づきを与えてくれる時間だったと思います。  昨今は特に「大きな芸術」が注目され、「アートを使う」「アートを役立てる」と、芸術家が不在のまま「職能」としてのアートが議論されています。その一方で、今回の主催であり、中間支援の先駆け的存在でもあるNPO法人芸術家と子どもたちのように、プロの芸術家と真摯に対峙し丁寧な場づくりを続ける団体も存在します。芸術家からも、この団体と仕事がしたいと声が上がる理由のひとつはそこにあると思います。  今回のPKTは東京アーツカウンシルとの共同事業のため、残念ながら都内の学校に限定されますが、昨今は各自治体が主催する芸術家のワークショップも増えました。そこに参加する子どもたちが主役であることは大大前提ですが、芸術家を始め、関わる人たちすべてが「芸術の力」を噛みしめるような、幸福な場づくりが望まれます。経済システムが軋み始めている「大きすぎる芸術」とは違う、丁寧で「小さな芸術」にこそ神は宿る。その奇跡の積み重ねが、何かを少しづつ変えていくのだと信じたい。なぜなら、そこに関わるすべての子どもたちが「未来」だからです。(ササマユウコ 記)
2016/10/21
〇4月にアートラボはしもとで開催された『HOME/AND/AWAY』(AAF2016参加)の巡回展が10月26日から熱海で始まります。路上観察学会分科会有志メンバー(西郷タケル、ササマユウコ、山内健司、鈴木健介)によるZINE+漫画、サウンド・インスタレーション(はしもとの空耳)も出展します。アートスポットとしても若い世代から注目が集まっている熱海。お近くにお出かけの際は是非お立ち寄りください。 開催:10月25日(火)~11月27日(日)(月曜定休) 会場:RoCA晴(熱海市銀座町10-19 1F) 主催:泥沼コミュニティ 共催:RoCA晴 協力:女子美術大学、アートラボはしもと、混流温泉文化祭 後援:アートラボはしもと事業推進協議会(相模原市・女子美術大学・桜美林大学・多摩美術大学・東京造形大学) 特別協賛:アサヒビール株式会社 助成:公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団
2016/10/11
10月9日に東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)で、シンポジウム「障害とアートの現在~異なりをともに生きる」が開催されました。障害者を扱ったテレビ番組をめぐる「感動ポルノ」問題、2020年東京パラリンピックを見据えた「アールブリュット」政策をはじめ、現在の「障害の場にあるアート」について、この日はコネクトも縁の深いカプカプ所長の鈴木励慈さん、『目のみえない人は世界をどう見ているのか』著書・伊藤亜紗さん(東工大)の最先端の研究など、多角的な視点から「アートの現在」が語られた有意義な時間となりました。 ※詳細は主催者HPをご参照ください。  残念ながらこの日は午後からの参加だったため、シンポジウムそのものへのコメントは控えたいと思いまが、最前線のアカデミックな場でも、現在はこのようなシンポジウムが多く開催されていることをご紹介したいと思いました。場は基本的に「ひらかれて」いますので、アカデミズムに偏らず多様な意見が飛び交う「場」が当たり前に開かれていくことに、何より大きな意義があると思いました。コネクトの「障害とアート」の見解につきましては、先日のコネクト考察レポ6「アウトサイダー・アートを考える」もご参照頂ければと思います。  ただひとつ気になっている点があります。それは「障害とアート」が語られる場において、実際に現場を託されることの多い「アーティスト」の視点、またはその仕事への評価が不在のまま議論が進むことがわりとよくあるということです。「生きるための技術」としてのアートは、アーティストにとっては「技術以上」のアイデンティティでもある。そこに対する配慮の無いまま、アートを「ツールとして役に立てる」「提供する」ことが当たり前のように要求される。それはアート/アーティストへの理解の足りなさ、「好きなことをやっているのだから」という暗黙のハラスメントと紙一重とも感じています。「障害とアート」は逞しさと同時に傷つきやすさも抱えた、実は非常にデリケートな場である。そこに携わる人たちには豊かな「想像力」やクリエイティビティが必要なのです。  もちろん、アーティストは社会的な’弱者’とは言えないかもしれませんが、マイノリティであることは確かです。もともと何かしらの生きづらさを抱えていて、やっとの思いで見出したのがアート=アイデンティティだったりもする。それを単なる「技術」としてひと括りにされる。または「やりがい搾取」のような現場がある。「誰もが」ともに生きる社会を目指す場の「誰も」にアーティストが入っていない場合がある。しかも「障害」のある場にクリエイティビティを見出し、自身のアートを揺るがすことなく昇華できるようになるには、アーティスト自身にも時間や経験、あとはこれが最も大きいと思いますが「適性」が必要です。しかし厄介なのは、その「適性」とアーティストとしての「資質」が必ずしもイコールとは限らない。特にアートとしての「質」が問われていない現場では、そこに何が求められているのかが分からず戸惑いや不安が生まれる。それはアーティスト自身を成長させるきっかけとなる場合もあれば、アーティストも障害者も、どちらをも傷つけてしまうような危険性も潜んでいることを肝に銘じた上で、「アートと障害」に向き合わなければいけないと思うのです。  2020年を前に、今後社会はアートに対して、ますます「役に立つ」ことを求めることでしょう。そこには「善意」という暗黙の圧力がかかっていないか。雇用形態として弱者にあるアーティストが「NO」と言えない状況に追い込まれていないか。アカデミズムは「研究対象」として他者のアイデンティティを利用してはいないか。常に自問自答を忘れないでいたいと思います。  本来アートには、社会に対して「カウンター」としての視点を投げかけたり、時には「役に立たないこと」にも意味があると教えてくれる役割もあります。それは「障害」にとっても親和性の高い、素敵な「チカラ」になるものだと思います。だからこそアートそのものも、「役にたたなくても」大事な余白として受け入れられるような、柔らかな社会の雰囲気を大切にしたい。アート自身が多様性を失い、ひとつの目的に集約されるような現場を生むようなことは避けたいと思うのです。  先日ノーベル賞を受賞された大隅先生もおっしゃっていました。「’役に立つ’という言葉が社会をだめにする」と。それは本当に科学もアートも同じ状況にあって、今の社会の空気に対する大事な警告と受けとめました。(ササマユウコ記)。

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