●コネクト通信 2016バックナンバー

2017年

4月

14日

「東京ろう映画祭」に参加して。

 世界から音を消した時に、豊かな音風景がきこえてくる。「東京ろう映画祭」大盛況でした!貴重なフランスのドキュメンタリー『音のない世界で』『新・音のない世界で』を観ることが出来て本当によかった。関連企画の井上考治写真展、神津裕幸(DAKEI)個展には「間 あわい」の芸術への新しい発見がありました。きこえること、音を出すことの「当たり前」を疑ってみる。異文化の交差点、言語と身体、社会や教育の問題、世界の調和とは何かを考える映画祭でした。

 そしてゼロから映画祭を立ち上げた実行委員中心メンバー(牧原依里さん、諸星春那さん)に脱帽です。何を隠そう第1回東京国際映画祭で悪戦苦闘した経験があるので、映画祭舞台裏の苦労は計り知れません。これだけのプログラムを実施するにあたり、準備は相当の仕事量だったと思うのですが、、そんな苦労は微塵も見せず、晴れやかなフィナーレでした。若いって素晴らしい!

【追記】今回特に興味深かったのは、最終日の二本のドキュメンタリーから、フランスの「手話」を取り巻く社会事情と差別の歴史、そこから現在に続く「時の流れ」があぶり出されたことでした。昨今は人工内耳の手術が増加し、教育現場もかつての「口話法」に戻る動きがあるという。手話と口語の’バイリンガル教育’の対象となる子どもは、フランス国内で16000人いるのに対して約150人しか受けられていません。どうして社会や聾者自身が「手話」を遠ざけるのか。その原因は複雑だと思いますが、この1年『LISTEN』チームとの出会いを通して理解したのは、手話は「言語」であるということです(牧原監督によれば『LISTEN』では、最近の若い聾者が苦手とする「非言語の手話」のニュアンスも描かれているということです)。
 つまり手話を使う聾者は(フランスに限らず)、その国の主要な音声言語とは文化圏が微妙に違う、彼らオリジナルの文化を持つということです。そのことを多様性=豊かさと感じられる社会かどうか。それは他の社会的マイノリティの問題、異文化理解と同質の難しさや複雑さを抱えていると思いました。例えば、社会との関係だけでなく、親か子の一方が聾者の場合、親子間の言語や文化が違うことで相互理解が難しくなる。関係性の構築に「障害」が生まれるのです。特殊な例かもしれませんが、聾の親が「我が子も聾だったら・・・」とつぶやく場面が印象的でした。これは耳がきこえないことそのものが問題ではないということです(実際に映画には「自分は障害を感じたことが無い、周囲がそう決めたことだ」という生まれながらの聾者も登場します)。ただ中途障害者はまた事情が違うと思いますし、だからこそ複雑さがある。
 日本は超高齢化社会を迎えています。聴者であった80歳近い私の母も、今は補聴器なしでは会話が成立しません。耳だけではなく、五感や身体機能は加齢とともに変化するのが自然です。だから私も例外ではありません。誰もが暮らしやすい社会の姿を想像したとき、「障害」の軸足がどこにあるのか、その言葉ははたして「適切」なのか。そこから考えてみる必要があると思いました。

 そして少なくとも芸術の世界では、心身のハンディを抱えた本人がそのことを「不自由」としていない限りは、そこを例えば「障害があるのに凄い」というような視点で語ることこそが傲慢だし差別ではないかと感じるのです。作品や表現の「内側の声」、その普遍性に耳をすますことで分かり合うことは出来ないか。それはすべての人たちに共通する課題です。もちろん異論のある方はいらっしゃるでしょう。しかしコネクトでは「芸術の下では誰もが平等である」という理念から、今後も多様性のある芸術活動、人間の可能性を紹介していこうと思うのでした。(ササマユウコ記)

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2017年

4月

04日

新年度のご挨拶

 準備期間も含めると2014年6月からスタートした’コネクト活動’の第1期も残り2カ月となりました。ふり返ればあっという間の3年間でしたが、本当に様々な出会いに恵まれ、何よりもまず私自身が学びの多い3年間となりました。また同時に「つなげること」から生まれる摩擦や葛藤、思考や方法論、つまりは「言葉」の違いにも気づき、「想い」が絡み合い一筋縄ではいかない芸術特有の難しさも感じました。

 主な活動としては設立当初の目的である①芸術家と研究者(大学)のネットワーク構築②情報発信③場づくりを3本柱に、相模原市、町田市を中心とした「都市郊外の暮らしと芸術」のリサーチ活動を展開してきましたが、1年も経たないうちに活動は国内外や世代を越えた広がりもみせました。せっかくの広がりを目的内に押しとどめることなく、流れに身を任せてみようという柔らかさも忘れないようにしました。

 キーワードである「コネクト(つなぐ、つながる、つなげる)」には、領域や専門を越えた人と人、人と場が出会うことから生まれる「間」を求めました。活動にはカナダの作曲家M.シェーファーが提唱したサウンドスケープ論を「内と外の関係性の哲学」と捉え直し、応用していきました。シェーファーの著書『世界の調律~サウンドスケープとは何か』(平凡社)の中には、サウンドスケープ論が「社会福祉」にもひらかれるだろうと示唆されていたことを実践してみようと思ったからです。簡単に言えば、人と人の出会いや場づくりを「音の風景」をデザインするように編んでいくのです。ですから、コネクトの活動そのものは、やはり「音楽活動」であるという意識がありました。この「音を出さない3年間の音楽活動」をふり返りながら、現在第二期に向けた「課題と展望」を言葉に変えている最中です。

 第一期の後半からキャッチフレーズを抽象的に「つなぐ、ひらく、考える」としました。もちろんそこには設立当初の目的も含まれるのですが、活動は「まちづくり」や「ワークショップ企画」’そのもの’ではなく、あくまでもその活動から見えてくる事象を考察する(考える)方に軸足があると感じたからです。ですから要なのはやはり「言葉」です。その言葉からも音風景を編んでいくのです。
 特に最近は、若い芸術家の活動に「世代交代」を強く意識する場面が増えました。同時に言葉にして下の世代に伝え残さなければならないことが、自身の経験にも沢山あることを自覚しています。社会の空気からどんどん昭和の記憶が消え始め、この国の芸術や教育の歴史を共有できなくなったと感じる場面も増えました。本来は教育や芸術にこそ不可欠な知識の学び、かたちだけではない根源的な五感や身体感覚の経験も必要だと感じます。芸術の内と外、どちらの世界に対しても「学ぶ場」の必要性を感じているところです。
 申請が無事に通り、6月からの第2期が実現可能となりましたら、またあらためてご報告いたします。3年間の事業報告もご希望の方がいらっしゃいましらたメールにてお問合せください。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

(芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト代表 ササマユウコ)

2017年

3月

26日

空耳図書館のはるやすみ③を開催しました。

コネクト第一期3年間の事業として3回(実質7回+スピンオフ2回)にわたって開催した「空耳図書館のはるやすみ」。

今年もうららかな春分の日に、おやこの皆さんとご一緒に「ちょっと不思議な読書会」を開催いたしました。ご参加頂いた皆様、ありがとうございました。
◎当日の活動記録はこちらからご覧いただけます。

 

このプロジェクトは即興性と柔軟性を大切にしたアーティスト同志のネットワーク構築も目的としており、そこからクリエイティブ・ユニットaotenjoが誕生したことも収穫でした。今後も彼らの活動を応援するとともに、引き続き「空耳図書館」という緩やかな輪の一員としてつながって頂けたらと思っています。また絵本や即興、子どもに興味のある若い世代のアーティストにも門戸をひらいていきたいと思っています。
 何より絵本を入り口とした芸術世界への豊かな可能性に気づけたことが、大きな成果だったと思います。今後とも移動遊園地のような「空耳図書館」をどうぞよろしくお願いいたします。(空耳図書館ディレクター:ササマユウコ)

2017年

3月

21日

「境界」を考える

●先週は秋葉原で、「境界」について思いを巡らせるふたつの場が提示されました。
 ひとつは「東京ろう映画祭」関連企画として、昨年の話題映画『LISTEN』共同監督・雫境こと神津裕幸さんの個展『紫窓~SHI・SOU』(@Art Lab AKIBA)。東京藝術大学で美術を学んだ神津氏は学生時代から「境界」をテーマに作品を制作し、今回は『LISTEN』からインスパイアされたビデオインスタレーションで「内と外」の’間’を提示しました。窓枠装置の両側から、揺れるレースのカーテン越しに移り変わる赤と青の風景が映し出されていきます。同じ映像のはずなのにふたつの世界の印象はまったく違う。どちらが内でどちらが外なのか。その相反するふたつの世界の「あいだ」に置かれた小さな窓枠の存在に気づく時、そこに作家からのメッセージを発見するのです。
 世界の仕組みはとても複雑ですが、関係性の本質はシンプルです。個展タイトルにある「紫窓」とは赤と青の二項対立として世界を捉えるのではなく、その’境界=間’に目を向けることを示唆しています。壁や線で分断するのではなく、境を流れる川のような境界の’幅’を意識すること。時にはその川に橋を架けて、相手の世界からこちら側を眺めてみること。赤だと思っていた風景が青に変わる瞬間。あらためて自分の世界は自分の窓枠から見える風景の一部にすぎないと思うのです。「あわい(間)」という言葉を思い出す。世界が重なり合うその曖昧な境界の部分に淡い紫色の水彩が滲みだす。分断されていると思い込んでいた世界の境界線が、実はグラデーションの帯であったと気づくのです。
 時おりJR高架の電車音が会場内を通り過ぎていく。作家自身には届かないその音が映像の「ゆらぎ」とシンクロするとき、視覚が聴覚と重なって、きこえない/きこえるの境界が消えていくように紫色の世界へとつながっていく。まさに、あわい(間)の橋を渡るような感覚に包まれるのでした。 ※関連サイト「東京ろう映画祭」→

●夜は東京アーツカウンシル(@アーツ千代田3331)で開催された東京迂回路研究JOURNAL③発行記念イベント「生き抜くための‘迂回路’をめぐって」の第2部に参加しました。今回のJOURNAL執筆者のひとりであること、2部のトークセッションにカプカプ所長・鈴木励慈さんが登壇されたことが、足を運んだ理由です。イベントの詳細については専用サイトをご覧頂ければと思います。ここでは、このプロジェクトについて少しご紹介します。

 「東京迂回路研究」は「NPO法人多様性と境界に関する対話と表現の研究所」が東京アーツカウンシル助成の共催事業として展開したプロジェクト。芸術、哲学系の若手研究者たちによって「社会における人々の「多様性」と「境界」の諸問題に対して調査・研究・対話を通じて’生き抜くための技法’としての「迂回路」を探求する」(抜粋)ことを目的に3年間にわたって展開されました。先の見えない今の時代を柔らかく真摯に生きるための「知恵」を探す旅のように進んでいく、とてもユニークなプロジェクトだったと思います。対話の場や研究会は医療・福祉・ケア・芸術(アート)・社会等を学際的につなぎ、しかし日常や街とも確かに地続きにあって、アカデミックすぎずニュートラルで民主的にひらかれた雰囲気にも包まれていました。研究者たちの専門である臨床哲学の対話や音楽療法の手法、芸術が場の根幹づくりに上手くいかされていたと思います。
 例えば今回のように福祉の関係者が登壇するトーク・セッションでも、いわゆる「福祉系」の勉強会とは趣が違い、主眼はあくまでも「迂回路=柔らかく生きること」にありました。社会のさまざまな「境界」が、参加者同士のざっくばらんな対話の中でいつの間にか淡くなる瞬間がたち現れ、それこそが「迂回路」の道しるべとなる。3年間のプロジェクトと併行してメンバー自身も変化しながら、研究調査がそれぞれの窓枠を広げていくような、それを参加者も共有するような旅だったと思います。
 研究と生活をつなげることは、芸術と生活をつなげるのと同種の困難さを抱えます。専門性を深めれば自分の生活が置き去りに、高みに着けば今度は「誰のためか」と自問する。まず生き抜かなくてはならないのは、他でもない自分自身の人生。研究や芸術を取り巻く環境が狭められていく中で、いかにして「迂回路」を見つけていくか。当事者としても生きている限り常に考えていかなければいけないテーマだと思うのでした。
 多様性や境界をしなやかに受け入れ、柔らかく生きる知恵としての「迂回路」探求。これからも人生に寄り添いながら、臨機応変にかたちを変えながら、さまざまな角度から新しい視点を投げかけてくれるだろうと期待しています。(ササマユウコ記)

●こちらは少し前になりますが、「東京ろう映画祭」の関連企画『音のない記憶~井上孝治展』(@渋谷アツコ・バルー)です。

 いわゆる「決定的瞬間」を一枚のフィルムに収めた昭和のスナップ写真を見るのは久しぶりでした。きこえない作家が全身全霊で切り取った「渾身の一枚」は、見る者の心に深く染み入ります。戦後の平和をかみしめるような、子どもたちの元気な姿やユーモラスな一瞬からは、昭和30年代の暮らしの音風景が聞こえてくるようでした。第二期『1959年沖縄の空の下で』も開催されますので詳細はこちらをご覧ください。

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2017年

3月

07日

「東京ろう映画祭」のご案内

4月7日~9日、世界中のろう者の映画と、日本語字幕での初上映の邦画を紹介する「東京ろう映画祭」が開催されます。音のない世界に耳をすますことで、何がきこえてくるのか。きこえる/きこえないの境界線を越えながら、あたらしい音風景を発見する機会です。
◎現在前売り発売中詳細はこちら→東京ろう映画祭サイト http://tdf.tokyo/

※この映画祭に先だっての関連企画のご紹介です。戦後の街の風景や市井の人々を撮り続けた、ろうの写真家・井上考治の写真展をはじめ、昨年ろう者の音楽を描いて話題になった『LISTEN』の共同監督・雫境(DAKEI)さんのもうひとつの顔である美術作家・神津裕幸としての個展開催されます。

2017年

2月

17日

【満員御礼】第3回「空耳図書館のはるやすみ」

【定員に達しました】ご応募ありがとうございました♪
今年もやってきました!ちょっと不思議な読書会『空耳図書館のはるやすみ~おやこのじかん』の季節です。今年のテーマは「はるのはじまり、いのちのたまご」。インドの工房で一冊づつ手作りされている絵本『世界のはじまり』を参考図書に、aotenjoのおふたりと共に自由に絵本の世界を飛び出し、旅したいと思います。

受付は専用メールにて、2月20日(月)の朝10時から。詳細はこちらのサイトをご覧ください。赤ちゃんパパママ大歓迎、無料です♪
(平成28年度子どもゆめ基金助成事業・読書活動)。
◎空耳図書館サイト http://soramimiwork.jimdo.com/

2017年

1月

30日

かんじる学校特別編「星空えほん会」@相模原市立博物館~プラネタリウムの可能性とともに

 1月28日に相模原市立博物館・プラネタリウムで開催された『かんじる学校 特別編「星空えほん会」』にお邪魔しました(主催:公益財団法人相模原市民文化財団/相模原市立博物館(相模原市教育委員会))。

 出演は劇団「ク・ナウカ」やSPAC(静岡芸術センター)の仕事でも知られる舞台音楽家・棚川寛子さん、平田オリザ氏が主宰する劇団青年団の看板俳優・松田弘子さん、SPACの若手俳優・加藤幸夫さん、森山冬子さんという豪華メンバー。舞台上には棚川さんらしい素朴な音の楽器が並べられ、絵本の内容にちなんだ楽しい歌や松田さんオリジナルのダンスも披露され、開演前から会場の子どもたちを巻き込みながら、心温まる「絵本の朗読会」が繰り広げられました。

 この日選ばれた二冊の絵本は『よるです』(作・絵:ザ・キャビンカンパニー 偕成社)と、『よるのかえりみち』(作・絵:みやこしあきこ 偕成社)。途中に『ほしめぐりのうた』(作詞・作曲:宮沢賢治)をはさみながら、それぞれの絵本の世界を「目」と「耳」の両方で楽しむような演出でした。会場のプラネタリウムは客席が階段状で劇場のようでしたし、朗読会の枠を自由に飛び越えた「絵本を使った小さな舞台作品」だったと思います。ほどよく肩の力が抜けた自然体のステージは、日ごろ第一線の舞台で活躍する舞台人の「アート」だったことは言うまでもありません。
 同時に会場内には十分なスタッフが配置され、暗がりでも安心して過ごせるような声かけや気配りがあり、低学年の子どもだけでもリラックスして過ごせる雰囲気に包まれていました。終演後にはステージ上の楽器に子どもたちの輪がうまれ、楽器体験や出演者との交流も楽しんでいました。
 子どものみ定員100名で土曜日午前のプログラムが満席だったことは、正直驚きでもありました。相模原には日ごろからJAXAを通して宇宙やプラネタリウムに親しむ下地はあるのかもしれませんが、今回はそこから舞台芸術の世界にも視野がひろがる機会になったとしたら、そこには新しい芸術体験や学びの可能性を感じます。

照明を落とした本番中の記録写真は撮影不可。こちらは開演前の様子。@相模原市立博物館プラネタリウム
照明を落とした本番中の記録写真は撮影不可。こちらは開演前の様子。@相模原市立博物館プラネタリウム

 意外と知られていませんが、プラネタリウムは「教育施設」として各自治体に設置されている場合も多く、各地でさまざまなプログラムが試みられています。星空が見えない都内23区には、かつてすべての区にプラネタリウムがあったとききますし、自治体の教育施設のみならず、民間の娯楽系施設のプログラムにもまた別の魅力があります。
 もちろん設備の新旧や運営方法の違いはありますが、たとえ最新設備ではなくても工夫が凝らされた良質なプログラムは多々あります。施設よりずっと簡素なドーム型の移動式プラネタリウムでも、アットホームで特別な星空時間が体験できます。

 今回のプラネタリウムは教育施設でしたから、朗読ステージの前に専門ガイドによる星空解説の時間が設けられました。ただし授業のようなガイドではなく、客席の子どもたちとの楽しいやりとりを通して、自分たちの暮らす街の夜空へ、大きな宇宙へと想像力を広げ、冬の星座に自然と興味が持てるような内容になっていました。日常から非日常へ。それこそが芸術体験だと、その後に続くアーティストのステージとともに、子どもたちも無意識のうちに感じることができたのではないでしょうか。
 有名なギリシャの星座をはじめ、人類は古代から星空に思いを馳せてきました。西洋音楽の出発点とも言える「天体の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」、「天から差す光」に例えられる雅楽の笙、インドや中国など世界に無数に存在するであろう星物語など、芸術と宇宙、人間と宇宙は切っても切り離せない存在でした。本来は音楽と科学は同じ領域にある学問でしたし、いまこうして生活している時間も、太陽や月や星、宇宙の動きとつながっています。それがいつの間にか科学と芸術が切り離されてしまう。それは学校の教育現場でも同様です。だからこそプラネタリウムには「芸術と科学」を再びつなげる役割をはじめ、多様な可能性が内在していると感じます。気づくと平面的になりがちな日常の「視点や時間」をダイナミックに変えられる場は、子どものみならず、大人にも必要とされるかもしれません。お近くのプラネタリウムにもぜひ注目してみてください。今回のように、劇場とはひと味違う素敵な芸術に出会える可能性もありますよ。
 もちろん本物の星空もお忘れなく。(ササマユウコ記)

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2016年

12月

27日

【予告】空耳図書館のはるやすみ・おやこのじかん「はるのはじまり、いのちのたまご」3月20日に開催します!

早いもので3年目となる’ちょっと不思議な読書会’「空耳図書館のはるやすみ」。2017年も3月20日(月・春分の日)に、ここから誕生したaotenjo(外山晴奈・橋本知久)のおふたりといっしょに、五感や身体を使って絵本の世界を自由に旅します。

応募は2月中旬から。ちらし配布は1月下旬からを予定しています。どうぞお楽しみに! (平成28年度子どもゆめ基金助成事業・読書活動)

 

※詳細はこちらの空耳図書館専用サイトをご覧ください!

 

日時:3月20日(月) 午前10時30分~12時【予定】

あそぶ人:aotenjo   +空耳図書館ディレクター・ササマユウコ
参加費:無料   定員:ちいさなお子様とその保護者(10組程度・お申込み順)
主催・お問合せ:芸術教育デザイン室CONNECT/コネクト

イラスト:Koki Oguma

 

2016年

12月

22日

東京迂回路研究オープンラボふり返りレポ「詩・写真・声~そこから言葉をつむぐということ①」に寄稿しました。

東京アートポイント計画の一事業として10月に開催された東京迂回路研究のオープンラボ「言葉を交わし、言葉をつむぐ、5日間」ふり返りレポート。「詩・写真・声~そこから言葉をつむぐということ①」に「詩の考察/耳の哲学」を寄稿しています。他にも興味深い様々な視点からレポートが寄せられています。ぜひご覧ください。(ササマユウコ 12.20)

2016年

12月

20日

ミロコマチコ『まぜこぜけはい』展特別企画カプカプ祭が開催されました。

ミロコさんと富原さんのエネルギッシュなライブペインティング
ミロコさんと富原さんのエネルギッシュなライブペインティング

JIKE STUDIOで開催中のミロコマチコ『まぜこぜけはい』展特別企画として、コネクトでもおなじみの「カプカプ祭」が開催されました。この地域作業所カプカプではミロコさんと新井英夫さんのワークショップが5年ほど前から隔月で展開されています。ササマユウコも昨年春に新井さんのWSを取材したことをきっかけにサウンドスケープ・デザインの視点で音を担当しています。
 この日はミロコさんとカプカプーズによるライブペインティングに合わせて、9月の「カプカプまつり」で披露された「八木節スリラー」を軸に、絵とダンスと音がひとつになった1時間の即興セッションが繰り広げられました。カプカプーズが創る音の森、生きもののような絵具、そして身体の音楽。会場に足を運んだ子どもを含む60名近いお客様もカプカプーズと一緒に、最後は歌って踊って「祭り」を楽しみました。それは「障害とアート」という言葉の枠組みが小さく感じられるような、誰にとっても素敵なエネルギーに満ちた場だったと思います。この5年間で積み重ねられた信頼関係はもちろんですが、非言語アートだからこそ可能になるコミュニケーション、そして人間本来の「つながり方」をあらためて実感するひと時でした。ラスコーの洞窟壁画もきっとこうやって、音や踊りがついたに違いないと「芸術の起源」にもふと思いを馳せるひとときでした。

また第2部トークショーでは、所長・鈴木さんによるカプカプーズの日常紹介、ミロコさん×新井さんによる5年間のふり返りなど、福祉を越えて「よりよく生きる極意」のような楽しいお話を伺うことができました。(ササマユウコ記)

左から)ササマユウコ、カプカプ所長鈴木励慈さん、新井英夫さん、ミロコマチコさん、板坂記代子さん
左から)ササマユウコ、カプカプ所長鈴木励慈さん、新井英夫さん、ミロコマチコさん、板坂記代子さん
黒瀧さん作)カプカプ人間相関図
黒瀧さん作)カプカプ人間相関図

楽屋裏ではカプカプーズによるコスプレ準備中
楽屋裏ではカプカプーズによるコスプレ準備中

※ミロコマチコ展は25日まで


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2016年

12月

09日

2016年の活動報告

「即興」をめぐる地方出張や取材がつづいた11月はコネクト通信をお休みしましたが、また後日考察レポにてご報告したいと思います。
そして気づけば2016年も残りわずかとなりました。同時に①芸術家と研究者をつなぎ②情報発信の拠点となり③社会にひらくことを目的にスタートした「コネクト活動」も、準備期間を含めた2014年6月からの第一期3年間が残り半年を切りました。2017年3月の年度末にはそこまでの活動をふり返り、そして第2期(3年間)の展望をあらためてご報告したいと思います。

今回は(2016年1月~12月)の活動をこちらのページにまとめてみました(記事の写真をクリックすると情報が出ます)。あらためて記録写真の一部を並べてみると、ネットワークや活動内容が飛躍的に、しかも国内外に広がったと思います。その上で、もともと設立時から通奏低音にあったサウンドスケープ思想が、音楽の枠も越えて「耳の哲学/きくこと」として実践的に深まっていきました。コネクトは代表の個人的な音楽活動とは一線を画して、「公共性」を見据えて始まった活動ではありますが、軸となる「耳の哲学」は公私共に不可分であるということを認識した一年間でもありました。この「気づき」は第二期の活動に活かせていけたらと思っています。
※個別の活動詳細はコネクト通信考察レポをご覧頂けましたら幸いです。

●また、2017年以降のコネクト活動について、何かご意見・ご要望、共同企画、執筆依頼などございましたら、こちらからお気軽にお問合せ頂けましたら幸いです。
代表ササマユウコの「耳の哲学カフェ(音のワークショップ)」へのお問合せもどうぞ。

 

引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

(2016年12月8日 代表:ササマユウコ記)

2016年

11月

30日

11月の活動から

●11月のコネクト活動については後日「即興」の視点から考察レポートとして取り上げたいと思います。

 

※写真は日本音楽即興学会に来日したS.ナハマノヴィッチ氏の参加者全員によるセッションの模様(代表はピアノで参加しています)。氏の著書である『フリープレイ』を翻訳した若尾裕先生には、この夏に下北沢本屋B&Bで開催されたキクミミ研究会の座談会『生きることは即興である~それはまるで’へたくそな音楽’のように』にご出演いただきました。ナハマノヴィッチ氏のWSはこの後東京でも開催され、そちらの模様も併せて考察したいと思います。

原爆ドーム、原爆資料館の見学。
同世代となる被爆者二世のお話を直接伺う機会もあって、非常に有意義な旅でした。

下旬には熱海で開催されていたAAF2016参加プロジェクト・泥沼コミュニティ

「ホーム/アンド/アウェイ」を訪問しました。


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2016年

10月

28日

「小さな音楽」の可能性~舞台音楽家・棚川寛子と特別支援学級生徒16名の『時を感じて・パフォーマンス』より@多摩市立青陵中学校(主催:アーツカウンシル東京、NPO法人芸術家と子どもたち)

生憎の雨でしたが、街はハロウィンの準備で華やか。
生憎の雨でしたが、街はハロウィンの準備で華やか。

 夏にご紹介したSUNDRUMにつづき、本日は多摩市立青陵中学校・合唱コンクール内プログラムで上演された舞台音楽家・棚川寛子さんと特別支援学級の生徒16名によるPKT(パフォーマンスキッズ・トーキョー)オリジナル作品『時を感じて・パフォーマンス』を鑑賞させて頂きました。(主催:アーツカウンシル東京、特定NPO法人芸術家と子どもたち 会場:パルテノン多摩・大ホール)。

 

 3学年の合唱が終わると、ステージの奥には大きなステンレス・ボウルが3つ、手前には大太鼓、鉄・木琴、ウィンドチャイム、ピアノ等の楽器が、最前には長机が3台一列に並べられました。特別支援のプログラムは昨年まで「筝」の演奏だったそうですから、このセットから何が始まるのか誰にも予想できなかったと思います(筆者もです)。代表生徒による挨拶が終わると、3人の男子生徒たちが上手から登場し、ユーモラスな「無言劇」が始まりました。その非言語のやりとりが実に自然体で面白かった。やがて彼らが色とりどりのプラコップを取り出すと、机上で「一捻り」あるリズムを刻み始めます。すると、その音に合わせて残りの生徒が登場し、全員が机とコップと身体でリズムを刻みながら『上を向いて歩こう』を歌うのです。その後、各自セットされた楽器に移り、まずボウルが叩かれると一気に「ガムラン」の音世界が広がり、場の空気が一変しました。台所用品と吹奏楽部の楽器を使っているはずなのに、どこか不思議でアジア的な音の風景が生まれる。ドラの代わりに叩かれる大太鼓がアクセントとなって、大きな会場が心地良い音に包まれていくのを感じました。決して威圧的でも、一方的でもない。その悠然たる「オンガク」は客席に驚きと感動を持って受け入れられていることは、会場の空気や後方の保護者の語る感想からも明らかでした。そして最後には「合唱コン」らしく、絵本から詩を紡いだという子どもたちのオリジナル曲がピアノ伴奏とともに歌われ、会場は大きな拍手に包まれていました。

 子どもたちが主役になった時間、それは棚川寛子さんの「アート(技術)」との幸福な出会いだったと思います。棚川さんによれば準備期間に実施した11回のワークショップのうち7回くらいまでは、子どもたちになかなか心をひらいてもらえず苦労したそうですが、回を積み重ねていくうちに徐々にリズムが揃い、音楽が立ち現れるその喜びを子どもたち自身が掴み取っていく手ごたえは感じていたそうです。しかしそこに「決定的なきっかけ」があった訳ではない。時間の積み重ねの中で、ゆっくりと子どもたちの内側にある芸術が開花することを信じて待つしかない、その信頼関係があったからこそ、今回の「音の力」が生まれたのだと思います。単に「上手く」演奏できている、音が揃っている、作品の質が高いという次元の話しではない。まさにそれが芸術の世界です。

 もちろんそこには棚川さんのプロの「仕事」、彼女の優れた耳とセンスによる音の取捨選択(デザイン)があった。特に彼女の音楽性の根幹とも言える、楽譜を使わずに稽古場で即興的に演者の身体から音楽を生み出す手法、高い評価を受けているク・ナウカの舞台音楽を始め、その経験値の高さが子どもたちの即興性や音楽をうまく引き出せたのだと思いました。何より彼女によって選び取られた音そのものの力が、子どもたちの耳と心を自然にひらいていった。芸術家の想いを託され「やらされている」のではない、子どもたちは自らの意志で’パフォーマー’として存在していると感じました。それが会場にいた他の子どもたち、大人たちにも、「芸術」とは何かを考えるきっかけになっていたとしたら、これほど素敵なことはありません。

 本来「芸術」の前では誰もが平等です。そこには様々な尺度があり、視点を変えると優劣の反転が起きる。合唱コンで整然と歌い競うことと、特別支援級の彼らが演奏し歌うことの何が同じで、何が違うのか。心に響く音楽とは何か。プロの仕事とは何か。さまざまな気づきを与えてくれる時間だったと思います。

 

 昨今は特に「大きな芸術」が注目され、「アートを使う」「アートを役立てる」と、芸術家が不在のまま「職能」としてのアートが議論されています。その一方で、今回の主催であり、中間支援の先駆け的存在でもあるNPO法人芸術家と子どもたちのように、プロの芸術家と真摯に対峙し丁寧な場づくりを続ける団体も存在します。芸術家からも、この団体と仕事がしたいと声が上がる理由のひとつはそこにあると思います。

 今回のPKTは東京アーツカウンシルとの共同事業のため、残念ながら都内の学校に限定されますが、昨今は各自治体が主催する芸術家のワークショップも増えました。そこに参加する子どもたちが主役であることは大大前提ですが、芸術家を始め、関わる人たちすべてが「芸術の力」を噛みしめるような、幸福な場づくりが望まれます。経済システムが軋み始めている「大きすぎる芸術」とは違う、丁寧で「小さな芸術」にこそ神は宿る。その奇跡の積み重ねが、何かを少しづつ変えていくのだと信じたい。なぜなら、そこに関わるすべての子どもたちが「未来」だからです。(ササマユウコ 記)

2016年

10月

21日

泥沼コミュニティ「ホーム/アンド/アウェイ」(AAF2016参加)巡回展のお知らせ

 

〇4月にアートラボはしもとで開催された『HOME/AND/AWAY』(AAF2016参加)の巡回展が10月26日から熱海で始まります。路上観察学会分科会有志メンバー(西郷タケル、ササマユウコ、山内健司、鈴木健介)によるZINE+漫画、サウンド・インスタレーション(はしもとの空耳)も出展します。アートスポットとしても若い世代から注目が集まっている熱海。お近くにお出かけの際は是非お立ち寄りください。

開催:10月25日(火)~11月27日(日)(月曜定休)
会場:RoCA晴(熱海市銀座町10-19 1F)


主催:泥沼コミュニティ 共催:RoCA晴 協力:女子美術大学、アートラボはしもと、混流温泉文化祭 後援:アートラボはしもと事業推進協議会(相模原市・女子美術大学・桜美林大学・多摩美術大学・東京造形大学) 特別協賛:アサヒビール株式会社
助成:公益財団法人アサヒグループ芸術文化財団

2016年

10月

11日

シンポジウム「障害とアートの現在~異なりをともに生きる」@東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属(UTCP)(10/9)

10月9日に東京大学大学院総合文化研究科・教養学部附属 共生のための国際哲学研究センター(UTCP)で、シンポジウム「障害とアートの現在~異なりをともに生きる」が開催されました。障害者を扱ったテレビ番組をめぐる「感動ポルノ」問題、2020年東京パラリンピックを見据えた「アールブリュット」政策をはじめ、現在の「障害の場にあるアート」について、この日はコネクトも縁の深いカプカプ所長の鈴木励慈さん、『目のみえない人は世界をどう見ているのか』著書・伊藤亜紗さん(東工大)の最先端の研究など、多角的な視点から「アートの現在」が語られた有意義な時間となりました。
※詳細は主催者HPをご参照ください。
 残念ながらこの日は午後からの参加だったため、シンポジウムそのものへのコメントは控えたいと思いまが、最前線のアカデミックな場でも、現在はこのようなシンポジウムが多く開催されていることをご紹介したいと思いました。場は基本的に「ひらかれて」いますので、アカデミズムに偏らず多様な意見が飛び交う「場」が当たり前に開かれていくことに、何より大きな意義があると思いました。コネクトの「障害とアート」の見解につきましては、先日のコネクト考察レポ6「アウトサイダー・アートを考える」もご参照頂ければと思います。

 ただひとつ気になっている点があります。それは「障害とアート」が語られる場において、実際に現場を託されることの多い「アーティスト」の視点、またはその仕事への評価が不在のまま議論が進むことがわりとよくあるということです。「生きるための技術」としてのアートは、アーティストにとっては「技術以上」のアイデンティティでもある。そこに対する配慮の無いまま、アートを「ツールとして役に立てる」「提供する」ことが当たり前のように要求される。それはアート/アーティストへの理解の足りなさ、「好きなことをやっているのだから」という暗黙のハラスメントと紙一重とも感じています。「障害とアート」は逞しさと同時に傷つきやすさも抱えた、実は非常にデリケートな場である。そこに携わる人たちには豊かな「想像力」やクリエイティビティが必要なのです。
 もちろん、アーティストは社会的な’弱者’とは言えないかもしれませんが、マイノリティであることは確かです。もともと何かしらの生きづらさを抱えていて、やっとの思いで見出したのがアート=アイデンティティだったりもする。それを単なる「技術」としてひと括りにされる。または「やりがい搾取」のような現場がある。「誰もが」ともに生きる社会を目指す場の「誰も」にアーティストが入っていない場合がある。しかも「障害」のある場にクリエイティビティを見出し、自身のアートを揺るがすことなく昇華できるようになるには、アーティスト自身にも時間や経験、あとはこれが最も大きいと思いますが「適性」が必要です。しかし厄介なのは、その「適性」とアーティストとしての「資質」が必ずしもイコールとは限らない。特にアートとしての「質」が問われていない現場では、そこに何が求められているのかが分からず戸惑いや不安が生まれる。それはアーティスト自身を成長させるきっかけとなる場合もあれば、アーティストも障害者も、どちらをも傷つけてしまうような危険性も潜んでいることを肝に銘じた上で、「アートと障害」に向き合わなければいけないと思うのです。
 2020年を前に、今後社会はアートに対して、ますます「役に立つ」ことを求めることでしょう。そこには「善意」という暗黙の圧力がかかっていないか。雇用形態として弱者にあるアーティストが「NO」と言えない状況に追い込まれていないか。アカデミズムは「研究対象」として他者のアイデンティティを利用してはいないか。常に自問自答を忘れないでいたいと思います。
 本来アートには、社会に対して「カウンター」としての視点を投げかけたり、時には「役に立たないこと」にも意味があると教えてくれる役割もあります。それは「障害」にとっても親和性の高い、素敵な「チカラ」になるものだと思います。だからこそアートそのものも、「役にたたなくても」大事な余白として受け入れられるような、柔らかな社会の雰囲気を大切にしたい。アート自身が多様性を失い、ひとつの目的に集約されるような現場を生むようなことは避けたいと思うのです。
 先日ノーベル賞を受賞された大隅先生もおっしゃっていました。「’役に立つ’という言葉が社会をだめにする」と。それは本当に科学もアートも同じ状況にあって、今の社会の空気に対する大事な警告と受けとめました。(ササマユウコ記)。

2016年

10月

01日

NPO法人芸術家と子どもたち「児童養護施設等における被虐待児や障害児へのアートを通した自立支援活動」報告書について (10/1)

FBで大変反響の大きな記事でしたのでこちらでもシェアします。
「芸術家と子どもたち」で実施された児童養護施設ワークショップの報告書です。3月~7月にかけて友愛学園で実施された新井英夫さんのワークショップに、ササマユウコもサウンドスケープ・デザイン担当として参加させて頂きました。昨年12月から新井さんと隔月で実施している「キクミミ研究会〜身体と音の即興的対話を考える」でフィードバックを重ねつつ、今回は子どもたちが他者の「音」をきき合いながら、身体が自然に「音風景」となるような場を目指していきました。最後の発表(公開ワークショップ)では、施設の中庭も使って、室内と野外が音でつながるような奥行のある空間構成も実現しました(不思議な静けさと美しさのある世界でした!)。個人情報が重視される場の性質上、ワークショップの様子を外側にお伝えする機会が少ないのが残念ですが、いわゆる「作品」とは違う、障害をもつ子どもたちとの身体表現の場に人知れず生まれては消えていく芸術の力に、もちろん子どもたちの力の大きさにあらためて気づかされました。また、そこを積極的に担っている新井さんのような芸術家たちの仕事の「意味」を、まずは芸術の内側で、そして社会で考えることは、ある種の’優生思想’に陥りがちな今日の「芸術」を問い直す場として、また相模原事件のような悲劇を繰り返さないためにも重要だと思いました。子どもたちが暮らす「施設」は隔離された「特別な場所」ではなく、私たちの日常の延長線上にあるという意識の変化。企業メセナや公的助成制度が対象とする「芸術」が、どうしても富裕層向けハイアートや、クラシック&アカデミックな場に偏りがちだった中で、今回のように能力主義や成果主義とは「別の価値観」をもつ社会福祉の現場にまで広がると、これからの芸術や社会そのものが、もっと自由に息が出来るのではないかと小さな希望も感じました。もちろん今回のワークショップは新井さんの柔らかな芸術性、何より経験値の高さが必要だったことは言うまでもありません。

今回は貴重な場の報告がシェアされたので、こちらでもご案内いたします。(ササマユウコ記)

 

///////////以下は「芸術家と子どもたち」からの転送///////////////

当団体では、児童養護施設におけるワークショップの取り組みを続けおり、この度、活動を振り返る記録・事業紹介パンフレットを発行しました。

2015年12月から2016年7月まで、「公益財団法人三菱財団」の助成を受けて、都内児童養護施設2か所と障害児入所施設1か所で実施したワークショップの記録です。アーティストのインタビューや、参加した施設の職員の方々の感想を交えながら、児童養護施設等におけるアーティスト・ワークショップの意味を考えます。

[記録・事業紹介パンフレットダウンロードページ]

児童養護施設等における被虐待児や障害児へのアートを通した自立支援活動

~アーティスト・ワークショップの記録・事業紹介~

http://www.children-art.net/jidouyougo_report2016/

※本事業は、公益財団法人三菱財団の平成27年度社会福祉事業・研究助成を受

けて実施しました。

※記録冊子は、関係者への配布を目的とし、販売はしておりません。

2016年

9月

06日

地域作業所「カプカプ」18周年祭りに参加して、考えたこと@横浜・ひかりが丘団地

ミロコマチコさんとカプカプーズ作の顔出しパネル撮影会
ミロコマチコさんとカプカプーズ作の顔出しパネル撮影会

体奏家/新井英夫さんと絵本作家ミロコマチコさんが隔月でワークショップを行っている地域作業所カプカプ。毎年9月になると開店記念のお祭りが行われます。新井一座では毎年好例、オリジナル・ダンスの「新作発表」をするのですが、今年は「カプカプ八木節スリラー」が午前午後、計4回にわたり「飛び入り大歓迎」で、地域の皆さん、見学者を巻き込んで団地の商店街で賑やかにお披露目されました。
 コネクト代表の本業は音楽家ですので、この日もワークショップ同様に太鼓や音具で参加させていただきました。実は2011年3月以降、「音を出すことの意味」を見失ってしまって、数年間ほとんど音を出さずに「サウンドスケープ(耳の哲学)」を通して「音楽とは何か」という問題と向き合ってきました(その続きにコネクト活動があります)。それが様々な偶然が重なって、特にこの「カプカプ」の新井一座との出会いを通して、今あらためて「音を出すこと」や「音楽すること」のチカラを噛みしめています。何よりこの1年半近くの自身の心境の変化は、当事者研究としても大変興味深いので、また日をあらためて考察しようと思っています。
 コネクトのオフィスがある相模原市では、7月に公共の福祉施設内で大変残念な事件が起きてしまいました。段々と明らかになる犯人の「障害者」への認識、その犯行動機等がどうにも「間違っている」と感じますし、もしかしたら防げたかもしれない悲劇だと考えると、犠牲になられた皆様のご冥福を心からお祈りすると共に、本当に「残念」という言葉しか見つかりません。そしてこの事件をきっかけに福祉施設が「安全」のために地域から閉ざされ、最も大切な「安心感」が失われてしまうことへの懸念もあります。

店頭の売り物「植木鉢」と太鼓を使った新井さんとメンバーの即興セッション
店頭の売り物「植木鉢」と太鼓を使った新井さんとメンバーの即興セッション

 カプカプ祭りはみんなで商店街で踊って「音を出す」行為です。それは自分たちの存在を周囲に知らせ、受け入れてもらう「儀式」でもあると思います。常日頃の信頼関係が無ければとても成立しない場です。昨年はじめてお祭りに参加した時は、団地の日常空間に向けて非日常の音を出すことに正直ドキドキしました。けれどもそこで実感したのは、カプカプは地域に愛され、受け入れられているという安心感でした。もちろんここで働く愛すべき個性豊かなメンバーたちも含め、所長の鈴木励慈さん&まほさんが日々「誰にとっても居心地のよい場所」をつくろうと、地域にひらかれた喫茶店を拠点に周囲への心使いを重ねてこられた結果です。ひとりひとりの「顔」がみえること。オープンな雰囲気であること。その中での日々の積み重ねが、この「奇跡の一日」を可能にしている。祭りは開店記念であると同時に、この作業所がこれからも変わらずに商店街に「ひらかれる」「受け入れられる」という安心感を共有する場でもあると思いました。
 大きな変化ほど、すぐには結果が見えづらいものです。延々と同じことが繰り返されるような辛抱や、それなりの時間が必要になる点は子育てと同じだと思います。それでも小さな変化が、一年後には本当に想像もしなかった一歩につながっていることがある。もちろん、同じように自分自身も目に見えない小さな変化を重ねている。それは「年を重ねる」ことであり、そこには「出来ること&出来なくなること」の両方が含まれる。ある日突然、その変化に気づく瞬間がある。その時に私たちはオロオロしながらも、’障害’のある/なしの境界線を越えて、最後は「みんな同じ」になっていくのだろうと、長い目で人生を見られるようになるのです。事件の犯人のような優生思想に陥りがちな人には、時間と共に変化する自己/他者、何より「想定外」という概念が、生きる時間からすっぽり抜け落ちている気がします。

最後は地域の人も見学に訪れた人もみんな巻き込んで。
最後は地域の人も見学に訪れた人もみんな巻き込んで。

誤解を恐れずに言えば、カプカプには「弱い人」はいません。他の作業所に馴染めずに集まった人が多いとききますが、それは彼らの根底にある「アーティスト」としての魂がきちんと息をしているからだと思います。人が個性を認められ、ありのままに受け入れられることで生まれる「安心感」こそが生きることの幸福感だと思いますし、人を強くもします。むしろ今は誰もがそんな「居心地の良い場」、本当の自分でいられる場を切実に欲しています。それは相模原の犯人も同じだったかもしれない。あの事件は決して「福祉の場」に限られた特殊な事件ではないと感じています。人は関係性が固定化した環境に置かれた時に、息苦しさを感じるのではないかと思います。家族、学校、友人、会社・・・いちど固まってしまった関係性を柔らかくするのは容易ではありません。逃げ出すこともままならない。そういう時に本来は「芸術」が大きな力になってくれるはずでした。一枚の絵から、一曲の音楽から、一本の舞台から、当たり前だと思っていた関係性や価値観が揺さぶられる。はじめて出会う価値観、知らなかった世界を知る。例えば、かつての芸術には行政的指標や評価に関係なく、息苦しい日常の「外側」に出て、ゆっくりと深呼吸のできる場が(公共の劇場であっても)存在していました。のんびりした時代だったと言えばそれまでですが、システムや法の整備だけでは、ましてやロボットでは決して代わることが出来ないのが芸術や福祉の領域の奥深さだと思います。
 このカプカプに間違いなくあるのは信頼関係に基づいた圧倒的な「表現の自由」です。そして「世話をする/される」という関係性をはるかに越えた複雑で面白い人間模様。誰もがほっと息のつける柔らかなザツゼンさがある空間。まさにそれこそが人間関係の「芸術」だと思うのでした。(ササマユウコ)。

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2016年

8月

29日

第6回キクミミ研究会・夏の特別座談会『生きることは即興である~それはまるで’へたくそな音楽’のように』@本屋B&B

下北沢のユニークな本屋さんB&Bにて、第6回キクミミ研究会夏の特別座談会『生きることは即興である~それはまるで’へたくそな音楽’のように』が開催されました(8月26日)

出演:若尾裕(臨床音楽)×新井英夫(体奏家)×ササマユウコ(音楽家/コネクト代表)

企画:CONNECT/コネクト 
主催:B&B

 サウンドスケープ、音楽教育、音楽療法、そして作曲、即興ピアニスト・・。研究者/教育者/音楽家を自然体で往来し、常に柔らかな姿勢で「音楽」と向き合い、その内側から芸術と人生の真理に迫る若尾先生。この国のアカデミズムでは本当に稀有な存在ですし、「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」メンバー(新井英夫、ササマユウコ)が共に大きな影響を受けた芸術家人生の先達者でもあります。
 2014年夏、ほぼ同時期に刊行された訳書『フリープレイ~人生と芸術におけるインプロヴィゼーション』(フィルムアート社)と著書『親のための新しい音楽の教科書』(サボテン書房)を中心に紐解きながら、この夜は音と身体の境界線を越えて自由に言葉を紡ぎ合い、まるで即興セッションのように生き生きとした柔らかな2時間を送ることができました。実は「看板に偽りなし」ということで、この座談会そのものも即興で進めていきましたので、終了後の感想から会場の皆さんも一緒に楽しんで頂けた様子を伺えて内心ほっとしていました。

 今月のコネクト考察「蓮の花のひらく音をきく」でも触れましたが、このところの社会の空気には、今までの人生で体験したことのないような息苦しさを感じていました。音楽の、特に即興演奏で体感するような自由な感覚を、何とか日常の「コトバの場」でも共有できないかと考えていたところ、さまざまな偶然が重なりこの企画が実現しました。前述の著書『親のための新しい音楽の教科書』の中で若尾先生も多角的な切り口から触れられていますが、音楽から社会やコミュニティの在り方、個の人生を考えることで思いもよらない発見があります。そこから硬直化した社会の突破口が見えてくる可能性も提示したいと密かに思っていました。
 学校教育で習う西洋クラシックは「はみ出す」ことが許されない五線譜と平均律を使う構築的な音楽
ですし、楽器の習得も「簡単なものから始め、難易度を上げていく」という’右肩上がり’の思想になりがちです。しかし若尾先生は「へたくそな音楽」の章でピアノの巨匠ホロヴィッツの例を挙げ、「私たちの社会には満足など最初からない」と諭します。それは経済成長が幻想だと気づきながらも生産性を求め、「生きること」の本質が見失われがちな今の社会の疲弊感そのものです。しかも芸術は非生産的ですから、そこに携わるだけで常に「何のために」が問われ、当事者たちも本来の意味を見失いがちだということにも気づきます。一方で、誰もが平等に(気軽に)参加でき、失敗が吸収されやすい民族音楽やコミュニティ音楽の仕組みについても「音楽の免震構造」という言葉で紹介されています。この「免震構造」は、硬直化した社会を柔らかくするヒント、人と人が境界線を越えて無理なくつながるコミュニティとは何かを示唆していると思います。

 中でも特に興味深かったのは「時間」の捉え方でした。音楽が「時間芸術」であることに、あらためて焦点を当てて考えてみます。

 西洋クラシックには必ず「はじまり」と「終わり」という発想がありますが、インド古典はチューニングから何となく始まり、終りたい時/終わるべき時に「自然に」終わります。譜面に書き残された作品ではなく即興的な「演奏行為」そのものが音楽なのです。さらに世界を見渡せば「未来」も「過去」もない「今」だけを繰り返す民族音楽もある。本来は多様な「時間」を生きていたはずの世界が、いつしか西洋の時間(音楽)によって統一されていく。それが近代化であり、同じ時間の中では「はみ出す」ことが難しく、生きづらさにもつながっていく。つまるところ「時間」の概念こそが社会であり、個の人生観をも決定していく。本来は、それぞれの時間や身体を生きていたはずの人間が、内側の声に耳をすました「自然な時間」を手にすることがいつの間にか難しくなってしまったのです。
 しかしこれは、どちらが「良い悪い」という話ではありません。共通の時間を持つことの恩恵も多々あるからです。ただし「時間」を音楽に置き換えて考えてみた時、世界中の音楽を一律に「オンガク」として括るのではなく、多様性を知ることから始める音楽教育が「生き方」の幅につながるだろうことは簡単に想像がつきます。
特に「即興演奏」は「今」という時間に集中する行為ですし、時間そのものである「生きる」を考える上でも大きな手がかりを与えてくれます。カオス的なノイズからテーマに向かって削ぎ落とされていく即興、JAZZのようにテーマから即興を発展させる方法論の違いも同様です。さらに、音楽療法や福祉の現場に生まれては消えていく「へたくそな音楽」の時間には、誰にも真似できないような、きらきらと魂が輝いた芸術を見つけ出すことがある。それは何故なのか、そこは今後もっと深めたいテーマだと思いました。

 一方で、この日のもうひとつの視点となった「身体」からも、自己と他者の差異を知り、身体の変化から意識する「時間」は「音楽」そのものだということが見えてきました。これはシェーファーが『世界の調律』の中で「身体モジュール」として触れていることです。身体は音楽であり時間である。即興はこの三者を瞬時につなぐ行為、生きることそのものです。洋の東西にある身体やダンスの教育システム、作品構造が、実は音楽と相似形なのです。即興的に動くことと振り付けられた作品を踊ることの違いは、音楽を作曲することにも当てはめて考えることができ、プロの芸術家の役割そのものを捉えなおす機会にもなりました。

 音楽やダンスはもともと「非言語コミュニケーション」としても機能しますが、その内側には素敵な言葉(思考や感性)が沢山存在します。しかしそれを外側につなぐ機会は少なく、当人たちも敢えて言葉だけの場をつくる必要性を感じてこなかったのも事実です。自分の感じたことや考えたことが最も伝わる手段は、それぞれの専門性だと自負しているからです。けれども一見「ロジカル」な言葉に溢れた今の社会にこそ、もっと非言語芸術家の言葉が必要ではないかと最近特に感じています。もちろん「非言語表現」をコトバ化するということには大変な矛盾も孕むわけですが、この「キクミミ研究会~身体と音の即興的対話を考える」ではそこを敢えて追求してみたいと思います。メンバー(新井、ササマ)がこれからの10年(50代)の生き方を考える中で、次世代に伝える言葉を鍛える場として、またその場を広く分かち合うことで、「生きたコトバ」が伝わっていくことを目指したいです。特に今回のイベントでは、開催前から思いがけず本当に沢山の反響を頂いて、研究者と芸術家をつなぐコネクト活動も強く背中を押されたような気がしました。また是非、内と外をつなぐ自由で生き生きとした「場」をつくりたいと思いました。そしてこの日のために京都からお越し頂いた若尾先生ご夫妻、ご協力頂いた次世代アーティスト&研究者、B&Bスタッフ、そして何よりご参加頂いた皆さまに深く感謝いたします。

 「未来」が「今」の連続だとしたら、この瞬間に集中する行為が「即興」なのだと思います。たとえ「へたくそな音楽」だとしても、自分の心と身体を感じて精いっぱい奏でること。それこそが「生きる」ことだと、あらためて実感する一夜でした。何より自分が「やっぱり音楽が好き」であることを、若尾先生や新井さんの偽りのない言葉から実感することができました。ありがとうございました。(2016.8.29 ササマユウコ記)

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2016年

8月

11日

MATHRAX『じぶんのまわり展』with視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ@茅ヶ崎市美術館

 コネクトネットでもご紹介させて頂いた相模原市在住のアーティスト・ユニットMATHRAX(久世祥三+坂本茉里子)ご夫妻の展覧会『じぶんのまわり展』が現在、茅ヶ崎市立美術館で開催されています。昨日(8月11日)は、偶然こちらの展覧会で『視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ』が実施されるとのことで、現場の様子を見学させて頂きました。

 点字バージョンも作成された展覧会フライヤーには「耳でながめて 目でかいで 鼻でふれて 手できいて」とキャッチコピーが記されています。その言葉が示す通り「なでる」と優しい音のする木製の動物や石たちが手や耳の感覚を、時間とともに変化する空の色のような光のオブジェが「記憶」を呼び覚まし、さまざまな「関係性」を示唆するように展示されていました。MATHRAXの作品はおそらく、その場とモノとの関係性から生まれる展示方法でも印象が変化し、どの作品も受け身ではなく鑑賞者が自らの五感を使って「関わる」ことで完成する作品たちです。その作品性は今回のワークショップの目的である「みえる/みえない」をつなぐ媒体としても非常に相性が良かったと言えるのではないでしょうか。応募も抽選になるほどの人気だったようです。

株式会社資生堂が開催した「LINK OF LIFE ふれる。さわる。美の大実験室』展で資生堂の研究者と共同制作された作品「Language]
株式会社資生堂が開催した「LINK OF LIFE ふれる。さわる。美の大実験室』展で資生堂の研究者と共同制作された作品「Language]

 今回のワークショップでは2チームに分かれて、3つの主要な作品をそれぞれ順路を逆にして巡りました。「視覚障害者と~WS」は、参加者同士が作品に触発されながらオープンな関係性の中で自由にコトバ(感想)を表現する、他者の感性の違いを知る/知られる面白さがあります。今回鑑賞したMATHRAX作品は、例えば他者の奏でた「自分とは違う音」を「きく」ことで作品の印象が変化する瞬間があります。鑑賞者はそこで自分の「枠」を越える体験をします。

木の作品ひとつひとつの「触り心地」の違いを発見し伝える人(手)。オブジェを「日常のモノ」に置き換えながら説明する人(目)。作品内部からきこえる音を分析する人(耳)。香りに刺激された「記憶」を語る人(鼻)...自分の手、目、耳、鼻の感覚を言葉に変えることは、楽しいけれども意外と難しい作業だったかもしれません。作品との「関わりの距離」を縮めたり広げたりしながら、まずは「みえる人」の自由なコトバが連想ゲームのように「みえない人」の想像力を掻き立て、双方に「対話」が生まれていきました。一方で両者に共通する「嗅覚」や「聴覚」については、「みえない人」は五感を使う人よりも音(耳)や香(鼻)の反応が敏感だったと思います。「手」は日頃から「みる」役割も果たしているせいか(点字しかり)、特にデフォルメされた動物オブジェの「かたち」については、「みえる人」の情報を何度も確かめているのが印象的でした。彼らの手が覚えている「動物のかたち」とはだいぶ違うかたちのようでした。そして、その初めての体験こそが芸術体験であり、その「驚き」は「みえる/みえない」とは無関係なのだと思います。

特に興味深かったのは「宇宙の音を編む」コーナーの、向かい合わせに展示された円型のオブジェ。これを撫でると、天井からつるされた6つのスピーカーに内蔵されたちいさな「星」が光り、遠くからきこえる教会のオルガンのような荘厳なハーモニーが降りてくる「ステラノーヴァ」(新星)という作品体験でした。「みえる人」同士は相手に合わせた手の動きに重点が置かれ(身体コミュニケーションが優先され)、奏でられる音が必然的に多くなります。一方、「みえない人同士」では、お互いの「音」を聴き合いながら静かで美しいハーモニーが生まれる。「みる」と「きく」のどちらを関係性に優先するかによって、そこに生まれる「音の風景」が違うということはとても興味深い結果でした。古代の人が気づいた「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」はもしかしたら、目を閉じた時にきこえてくるのかもしれませんし、もしくは星の関係性を「みるオンガク」だったのかもしれません。

 幾何学と流線、アナログとデジタル、木とプラスチック...一見すると対照的な要素が、音や光そして「五感」を介して共生しているMATHRAXの作品展。そこに生まれる世界は未来の音風景のようでいて、実ははるか昔から人が求めてきた「調和の世界」(ハルモニア)のかたちではないだろうかと思うのでした。

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2016年

8月

08日

「パフォーマンスキッズ・トーキョー」ホール公演Vol.42 SUNDRUM(サンドラム】編 「たいこたたいて うたって おどろう!真夏の大サンシャイン音頭ゥ☆ヤホホイ!」

 作曲家・宮内康乃さん主宰の「つむぎね」主力メンバーでもある大島菜央さん、ArisAさん等で構成されたパフォーマンス集団「SUNDRUMサンドラム」。国内外のライブが注目ですが、今日はホールを使った初めてのワークショップということで、東大和市ハミングホールで開催されたパフォーマンスキッズ・トーキョーの公演「たいこたたいて うたっておどろう!真夏の大サンシャイン音頭ゥ☆ヤホホイ!!」を観せて頂きました。実は私の方も今日が初サンドラムだったのですが、内容は「ほぼいつも通り(当事者弁)」だったそうで、子どもたちを大らかに包み込み、ホールの内外を使った壮大でパワフルなプログラムが完成していました。休憩なしの濃密な1時間半、まずは10人の子どもたちが「やりきった!」こと、集中がまったく切れなかったことに驚きました。都市郊外の新興住宅地で育つ子どもたちの中に、21世紀型伝統芸能が生まれる瞬間に立ち会えたような気持ちでした。もしくは秘境の奇祭を目撃したような不思議な感動か。わらべうたや盆踊りの持つ「型」の力も上手に活かされたことで、音楽的には複雑な要素でも無理なく楽しく挑める。誰にでも平等に自然に「見せ場」が回ってくるので、その場を引き受ける潔さが子どもたちに育まれていたと思います。そして特筆すべきなのは、今回のワークショップが鹿の皮や地元の竹を切りだして、自分たちが使う太鼓を作ることから始まっていることです。生命や自然と地続きにある太鼓の響きを本能的に「自分の音」としてよくきいて丁寧に力強く鳴らしていました。さらに印象的だったのは、馴染みのある日本語を喉に負担のない地声で歌にするサンドラム独特の歌唱法です。歌と太鼓と身体、ワークショップは地に足のついた手法が基本ですが、子どもたちにとっては日常にポケモンの幻を探す以上に、幻想的で夢のような体験だったと思います。心身のリズムが見事に一体化した心躍る生命の時間でした。

最後は見学者も全員ロビーで輪になって踊り歌いました。境界線を越えてサンドラムの世界に入る瞬間はまるで神事。さまざまな仕掛けやアーティストの要求に応えたホールの柔軟な姿勢も評価すべきと思います。何より「サンドラム」という底知れぬ可能性に、今後も期待したいと思いました。(ササマユウコ記)

2016年

7月

16日

『キネマ博物誌~映像による万有知の構築』

 

 コネクトでも時おりご紹介している20世紀の映像の百科事典『エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ』上映会のお知らせです。

◯対談・上映会

「キネマ博物誌〜映像による万有知の構築」

博物学研究者/荒俣宏

東京大学総合研究博物館長/西野嘉章

日時:7月23日(土)16時〜18時(開場30分前)

場所:インターメディアテク2F 

入場無料です。

主催:東京大学総合研究博物館+公益財団法人下中記念財団

◽︎以下、コネクト補足として・・

 1951年から30年近く、ドイツの国立科学映画研究所により制作された'世界中の知の記録の集積をめざした20世紀の映像の百科事典'「エンサイクロペディア・シネマトグラフィカ」をご存知ですか?実は、このフィルムの日本国内上映、教育的利用の権利は(公財)下中財団にあり、時おり上映会が開催されています。さらに、この7月下旬には専用HPが開設され、デジタル化された映像が貸し出されるようになります。個人視聴や上映会など、さまざまな活用方法の提案が期待されています。

この映像は演出や解説、BGMを極力避けて制作されています(音の無い映像も多いです)。文化人類学的に貴重なだけでなく、この半世紀で急速に失われた人の営みの豊かさにも気づかされる資料です。さて、ECとはどんな映像なのか?まずは一度ご覧頂ければと思います。

 

◯インターメディアテクは、日本郵便株式会社×東京大学総合研究博物館の協働運営による公共貢献施設です。

 

2016年

6月

01日

ソフィア哲学カフェ(@上智大学グローバル・コンサーン研究所)に参加しました。

コネクトではシェーファーと所縁の深い弘前大学今田研究室の「音楽×哲学カフェ」を開催していますが、そもそも大学から社会に「哲学カフェ」を広めたのは、鷲田清一先生を中心にした大阪大学臨床哲学研究室。阪神淡路大震災を機に、生きるための実学としての「哲学」を関西から全国にひらいてきました。その臨床哲学の根幹にある「聴くことの力」は、「きく」から世界と関わり直すサウンドスケープの考え方とも非常に親和性が高いと考えています。「しゃべりすぎていた哲学」「奏ですぎていた音楽」、つまりは専門領域からの一方通行だった関係性を内側から見直し、誰にとってもひらかれた「哲学」「音楽」の在り方、相互関係としての対話を考え、社会にひらきます。

 

5月30日には臨床哲学の寺田俊郎先生(現上智大学哲学科長)が進行役を務める哲学カフェが、同大学グローバル・コンサーン研究所で開催されました。寺田先生には共通の知人がいること、また会場が筆者の母校ということもあり足を運んでみました。この日のテーマは「いのち」です。学内での開催ということで、10名を超える参加者は哲学科の学生さんが中心となり、そこに一般の’大人’たちが数名参加するという珍しい場となりました。哲学カフェの面白いところは、さまざまな背景をもつ世代を越えた人たち誰もが、哲学の専門知識を必要とせず’平等に’参加できるということです。ただしそこに生まれる場は、リラックスした雰囲気ながらも単なる雑談ではなく、専門性を持つ「進行役」(今回は寺田先生)によって緩やかに交通整理され、時間の経過とともに哲学のスパイスが効いた対話の時間へと変化していきます。時おり立ち止まり、トピックをふり返り共有する。さまざまな角度から語られ、広がる話題のポイントを掬い上げ、場に投げ返す。興味深い話題を反復し、再提案する。この時間の流れは、どこか音楽やダンスの即興セッションとも共通する感覚や技術だとも感じました。「臨床哲学」と名付けられた所以は、この即興的な時間の流れにもあるのだと思いますし、それでは言語/非言語の即興的対話の違いは何だろうかと、年頭からアートミーツケア学会分科会での宿題となっている「問い」をあらためて考える機会にもなりました。臨床哲学の対話にはコトバで音風景を紡ぐような、専門性を越えた調和の世界を目指すところがある。誤解なきように言えば「調和」とは「同調」ではなく、多様性が生き生きとありのままに存在する相互関係の世界です。それは民主主義の基本でもあり、「体験して」身に着けるものだということもわかってくる。サウンドスケープを学ぶサウンド・エデュケーションと同様の考え方です。
今回は「いのち」という壮大なテーマでしたので、当然「正解」がある訳ではありません。しかし、限られた時間の中で学生さんたちの若々しく真剣な思考を「きく」ことから、まずは自分自身の「いのち」が今どのような場にあるのか、また年齢を重ねた思考そのものの変化にも気づく貴重な体験だったと思います。思考は、あるいは「いのち」そのものは、人生の経験に比例して「変化」するのだと。そして自身の「変化」は、自覚よりも他者の存在を「きく」ことで気づく方が大きいものかもしれないと思いました。

寺田先生にお伺いしたところ「進行役」は哲学者でなくても構わないそうですが、その素養や知識はあった方が望ましいということでした。筆者の感想からも「対話の時間」を深めるためには、進行役にその即興的なプロセスを楽しめる「度量」が必要だと感じました。まずは「誘導しない」「諭さない」「押し付けない」。ある意味、最も「きく力」を必要とされるのが「進行役」であることは間違いありません。

□以下は、最初に提示された臨床哲学カフェの「3つのルール」です。一見簡単なようでいて実はなかなか難しい。「生きる知恵」とも言える大変興味深い内容でしたので、共有したいと思います。
1)人の話しは最後までよく「きく」こと ⇒自分の思考を深めるため。

2)自分のコトバで話すこと。⇒過去の哲学者の言葉を引用しても構わないが、身体を通して理解してから使うこと。

3)自分のコトバ(思考)は変わることがあることを知ること。⇒その変化を「楽しむ」こと。自分は「正しい」と思いこまない、押し付けないこと。

 

□街中で開催される臨床哲学のカフェ(カフェフィロ)に参加したい、また開催してみたいとお考えの方は、以下のサイトもご参照ください。(ササマユウコ 記)

http://www.cafephilo.jp

2016年

5月

24日

話題作・聾者の音楽映画『LISTEN』アフタートークに出演しました。

5月14日より渋谷UPLINK(アップリンク)で上映がスタートした話題の映画『LINSTEN』。聾者の監督おふたり(牧原依里さん、雫境さん)とともに代表ササマユウコが、サウンドスケープ哲学を研究する音楽家の立場からアフタートークに出演しました。

□詳細は
ササマユウコのブログ『音のまにまに』をご覧ください。

2016年

5月

14日

川崎市立岡本太郎美術館「岡本太郎が愛した沖縄」展ほか

美術館の常設展「岡本太郎と音楽 〜響き・不協和音」に訪れましたが、企画展の「岡本太郎が愛した沖縄」も非常に興味深い展示でした。

太郎が実際に訪れた半世紀近く前の沖縄の貴重な「資料」からは、彼独自の民俗学に触れることができます。特に展示されている多くの写真の「ピンの甘さ」からは、それらが本来は人に見せるためではなく、あくまで美術家が自分の作品資料として記録したものであることがわかります。マニュアルのカメラで、シャッターを押す手が追い付かないほどに夢中で捉えた沖縄。太郎がそこで感じたプリミティブなエネルギーは、数年後に制作された大阪万博の「太陽の塔」にも昇華されたと考えられます。

その発言や存在感から、どこか「直感的な芸術家」という印象の太郎ですが、ソルボンヌ留学中にモースの弟子として身につけた研究者の視点、念入りなリサーチが、一見デュオニソス的な作品の背景にあることもわかってきます。むしろ常設展で流れていた彼の弾く無垢で屈託のないピアノの音にこそ「太郎そのもの」が現れている。本当は音楽家になりたかった太郎。しかし、あそこまで迷いのないピアノの音をきいていると、もし太郎が音楽家だったら美術家ほどの成功は得られなかったかもしれないと思えてきます。それくらい「裸の音」、仕事や社会とは無縁のピュアな音がしました。

見応えのある資料の中でも特に、久高島で12年に一度行われる神事「イザイホー」(1966年)の記録の数々は、現代の私たちに「神」や「自然」、コミュニティとは何かを強く問いかけてきます。YouTubeでもみられるようですが、30分程度にまとめられた抜粋の展示映像でも充分に現地の様子が伝わってきます。しかしこの神事は現在、継承者が存在せず行われていないそうです。その事実を「外側」の人間が嘆くのは簡単ですが、3日間に及ぶ儀式の数々や、現代の女性がカミと共に、時にはカミそのものとして生きることを「引き受ける」ことが容易ではないことも想像できるのでした。

 

人類はいま、21世紀の「祈り」のかたちを真剣に探さなければならないのでしょう。それは例えば、自然災害の地で「千羽鶴」が邪魔だと言われることとも無関係とは言えません。今や「新しい祈りのかたち」は、この小さな島に限らず、スマホでつながってしまった世界の共通課題と言えそうです。しかし沖縄の小さな島のカミは決して消えてしまったわけではない。いつかまたかたちを変え、新しい祈り(身体性)と共に復活するのだろうと思います。

「祈り」を失えば「カミ」はいつか見えなくなってしまう。カミとは本来、自然の脅威や豊かさであり、人々の平和な暮らしであり、家族の幸福を願う心でもあるでしょう。そのことはカミの島とは程遠い、この都市郊外の暮らしの中でも常に肝に銘じていたいと思うのでした。(ササマユウコ記)

 

□7月3日まで。川崎市立岡本太郎美術館にて。

2016年

4月

19日

泥沼コミュニティ主催「ホーム/アンド/アウェイ」が終了しました。

1日よりアートラボはしもとで開催していた泥沼コミュニティ主催「ホーム/アンド/アウェイ」が終了しました。嵐の後の静けさ。今回、路上観察学会分科会に素敵な機会を作って頂いた泥沼の皆さん、足を運んで下さった方々、興味深い他の参加アーティストの皆さま、ありがとうございました。

当初は二階モデルルームで「はしもとの音さがし」を展示予定でしたが、急遽シアターに変更となったことで、今回は少し作品性を出してみました。

展示したサウンドは、2月28日に泥沼さんや応募された皆さんと歩いた橋本4箇所(アリオ、神明大神宮、相原高校、商店街)の音を、実は少し「空耳」にして再構築しています。いつも耳にしている日常の音風景のようでいて、どこにも存在しない非日常の音です。そして時おり訪れる「無音」に偶然出会えた人は、そこに「沈黙」をききます。サウンドスケープ哲学から橋本の街を捉え直すという企画の意図が上手く伝わったかどうかは微妙ですが(笑)、泥沼の皆さんと一緒に歩かなければ、路上観察学会分科会から橋本のサウンド・インスタレーションやZINEが生まれることは無かったかもしれません。「歩く芸術活動」の新たな可能性を感じる経験でした。巡回展も企画中とのこと、また引き続きどうぞよろしくお願いします。(ササマユウコ記)

 

 

 

泥沼コミュニティ主催『ホーム/アンド/アウェイ』関連展示

『はしもとの空耳〜その音風景は内であり外である』(ササマユウコ×西郷タケル)

ZINE「路上観察学会分科会通信0号 橋本篇」

(編集・デザイン 鈴木健介

執筆: 鈴木健介、山内健司、ササマユウコ)

 

○路上観察学会分科会有志メンバー(西郷タケル、ササマユウコ、鈴木健介、山内健司・・五十音順)

 

4月3日関連トークイベント
なぜ都市郊外を歩くのか?」

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2016年

4月

16日

能楽師・柏崎真由子さんのワークショップに参加しました

美大出身らしくお手製の’教材’で解説してくれました。
美大出身らしくお手製の’教材’で解説してくれました。

相模原市在住で、神楽坂の矢来能楽堂を拠点に活躍する金春流シテ方(主役)の能楽師・柏崎真由子さん。4月16日に橋本公民館で開催されたワークショップに参加しました。
東京造形大在学中に伊藤キムさんの「階段から転がり落ちる」授業で身体表現に目覚め、能の道に入ったという異色の経歴の持ち主です。美大出身らしく能舞台の死生観や宗教観を視覚的にも興味深く解説して頂きました。鍛えられた謡や舞を身近に感じながら一緒に体験する時間は、自らの身体を通して能の表現に触れる貴重な機会でした。

1000年の時を生き抜いた芸術には、決して穏やかではない歴史の中で培われたしなやかな強さや普遍性、何よりユーモアがあります。大地や社会が不安定な時代にこそ先人たちの知恵の結晶である古典が教えてくれることは多い。「能はシュールなんですよ」と柏崎さん。確かに時空を超えた破壊力のあるストーリー展開や、旅から生まれたミニマルな舞台装置、ある意味で前衛的な音楽は、観るものの想像力を豊かに刺激し幽玄の世界へと誘います。若い人にこそぜひ体験してもらいたい古くて新しい舞台芸術だと思いました。内/外のサウンドスケープ哲学とも通じる舞台の世界観にも惹かれます。

(ササマユウコ記)

舞台の立ち姿も絵になります。
舞台の立ち姿も絵になります。
体験ワークショップ。まずは扇子の使い方から。
体験ワークショップ。まずは扇子の使い方から。

2016年

4月

11日

第2回音楽×弘前の哲学カフェ「’きこえない音’は存在するか?~花のひらく音をきく」開催しました。

去る4月9日に第2回音楽×弘前の哲学カフェ「’きこえない音’は存在するか?~花の開く音をきく」を開催しました(コネクト主催)。

 

音楽の専門知識は特に必要としない高校生以上を対象とした企画でしたが、今回はプロの演奏家や音楽療法、ダンスや演劇などの芸術教育に携わる方を中心に、比較的専門性の高い方たちのご参加となりました(前回のリピーターもいらっしゃいました)。
今回のように「哲学(コトバ)と音楽(オト)を結びつける場」を実際につくってみることは、哲学カフェとしては未知数でしたが、結果として専門家たちが日々「当たり前」に関わっている「音」について立ち止まり、コトバを介して考えてみる機会になったかと思います。終了後に同じ会場で開かれた懇親会では、アルコールを片手にフラットな関係性が生まれ、さらに自由な雰囲気での意見交換の場が生まれていました。今回はむしろここに向かっての「哲学カフェ」だったと感じています。

前述の通り、サウンドスケープ研究の弘前大今田研究室らしく、今回の試みは「コトバとオト」をつなげた「哲学音楽」に迫ったことにあります。通常の「哲学(コトバ)の場」を想像した方には、シェーファーの思想・哲学とは何かを実際に耳から体験して頂く目的もありました。ですから、音が糸電話で視覚化されたストリングラフィのスタジオ(Studio EVE)は主旨と非常によく合った会場となり幸運でした。実際に、きく人の耳によって様々な音風景が浮かぶ鈴木モモさんの奏でる(オト)をきく時間が加わることによって、「聴覚と視覚」「コトバとオト」をつなぎながら、サウンド・エデュケーションの課題の「ねらい」や音律と哲学の関係性にも、ぐっと近づくことが出来たのではないかと思います。その中で、前半は今田匡彦先生からご著書の『哲学音楽論』『音さがしの本』を下地にした哲学的視座(存在論、認識論)の基本的なレクチャーを、後半は「音さがし」の課題にもある『生まれてから最初にきいた音』を取り上げ、皆さんの「音(耳)の記憶」を手掛かりに「きこえる/きこえない」について考える場となりました。

ところで、なぜ今ふたたび音楽に「哲学(考えるコトバ)」が必要なのでしょうか。

哲学はロゴス(コトバ)の学問ですから、音楽の側からは常に埋めきれない、表現されない「ジレンマ」がつきまといます。そして一方で「コトバにならないことを音にするのが音楽である」と、コトバと距離を置いた考え方も存在します。しかし社会とつながるためのコトバを持たないと簡単に「自粛」されてしまうことも、2011年の辛い経験から身を持って知っています。

かつてリベラルアーツとして存在した「音楽」という西洋学問には、実際の「オト」は鳴っていませんでした。「宇宙の音楽(ムジカ・ムンダーナ)」は「きこえない星々の音」について考える哲学(考え方)であり、現代の私たちが考えるように歌ったり、演奏するものではなかったのです。しかし明治の開国で慌てて西洋音楽を輸入した日本の音楽教育には、この哲学がすっぽりと抜け落ちています。

「私」を表現するのではなく、世界に耳をひらき「調和」を考える「音楽」の存在を知る。米ソ冷戦による核の脅威や環境破壊が進む1970年代の世界に向けて、シェーファーは著書『世界の調律』の中で警告を込めて「調和」の重要性を示唆します。専門的なヴィルトーゾ教育を批判し、音楽教育を「全的教育」と捉え直し社会にひらくことを目指しました。しかし音や音楽がコトバに吸収されてしまっては本末転倒です。ですからシェーファーは、独自の音楽教育テキスト『サウンド・エデュケーション』の100の課題によって「耳をひらく哲学」の実践をさまざまな角度から提示しました。そしてこのテキストを「正解」とするのではなく、使い手が自由にアレンジすることを望んでいます。

コトバとオトが「良い関係」を築くことが出来れば、お互いにとって相乗効果が生まれると考えます。何よりお互いの「違い」を知ろうとする姿勢は音楽教育だけでなく、社会全体、生き方の姿勢すら変えていきます(シェーファーはこれを「内側からのサウンドスケープ・デザイン」と呼んでいます)。今回のように、特に「音/音楽」や「教育」に関わる専門家たちが、忙しい日々の流れの中で少しだけ立ち止まり、コトバを分かち合いながらオトについて考える場はさらに必要となるかもしれません。

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2016年

4月

04日

「ホーム/アンド/アウェイ」関連企画。路上観察学会分科会×泥沼コミュニティ座談会「なぜ都市郊外を歩くのか?」@アートラボはしもと


路上観察学会分科会×泥沼コミュニティ座談会。こんな感じで14時から始めました(写真は準備中)。個性豊かな若者たちにもご参加頂いて、2時間の予定が2時間半に。今年に入ってから3回の橋本コラボ活動を写真、スケッチ、音の記録で振り返りながら、非常に密な時間になったかなと思います。「ホーム/アンド/アウェイ」の視点から「なぜ都市郊外を歩くのか?」を考えると、結局行き着く先は「ひと」なのです。音を出しているのも人、まちを生かすも殺すも、やっぱりひと。そして「歩く」は他者とフラットにつながる最もシンプルで、楽しい芸術だとあらためて思います。そして、お互いの「まちの歩き方」を共有することから他者の感性を知り、日常の風景がぱっと広がるような貴重な経験にもつながっていきます。

●「ホーム/アンド/アウェイ」@アートラボはしもと/solid&liquid MACHIDAは17日まで。会期中、路上観察学会分科会ではサウンド・インスタレーション「はしもとの空耳〜この音は内であり外である」展示中です。

 

●関連ページはこちらをご覧ください。

ZINE『路上観察学会分科会通信 0号』橋本篇も無事に出来上がりました。

 

アートラボはしもと、solid&liquid MACHIDA、アゴラ劇場ほかにて配布予定です。

(編集・デザイン 鈴木健介

執筆・ササマユウコ、山内健司、鈴木健介)

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2016年

3月

23日

空耳図書館のはるやすみ「きこえる?はるのおと」を開催しました。(平成27年度子どもゆめ基金助成事業)

昼と夜が同じ長さになる春分の日。前日には町田の桜も開花宣言。まさに「春のはじまり!」となった特別な一日に「空耳図書館のはるやすみ」を開催しました。(和光大学ポプリホール鶴川3F エクササイズルーム)
今年度は午前/午後ともに多くの応募を頂きましたが、特に午前は昨年のリピーターさんで埋まり、一年ぶりに子どもたちと再会!その成長ぶりを前に感慨深いものがありました。何より「時間をパッケージ化しない」ことを目的にした、実験的&即興性のある内容でしたので(しかも初回は手探りなことも多く)、再び足を運んで頂けたことは大きな励みとなりました。

空耳図書館は「ちょっと不思議な読書会」と名付けられ、文字のない絵本、オノマトペやナンセンス、どちらかと言えば感覚的で五感を刺激するような内容の絵本を題材にしています。
きれいな絵の本はそのまま「舞台セット」に見立てたり、楽譜のように解釈することもあります。時にはその世界をはみ出して音や身体を使ってどこまであそべるか、そこに生まれる「空耳」(想像力)を刺激していきます。「指導」ではない声掛けをしますので、最初は戸惑うお子さんもいらっしゃいますが、自分が動いたり反応することをアーティストが丁寧に掬い上げ、その場の流れや空気が変わっていくことがあると気づきだすと、いつの間にか夢中になって参加しています。いつもは注意されたり、怒られたりするようなことも「それ、いいアイデアだね!」と褒められたりする場面では、本人以上に保護者にとっても新しい気づきがあるようです。

出演者たちは大きな「流れ(決め事)」を把握していますが、いちばん大切にしているのは「目の前にいる人たちとの関係性」です。そこにいるすべての人たちが対等ですし、もちろん筆者も含めた出演者同志もノンバーバル・コミュニケーションを取りながら、次にどう動くかを考え、即興的なセッションには参加者も気軽に入れるような雰囲気をつくります。ただし今回のような0歳から5歳の異年齢交流の場合、年長さんにはあえて「役割」を担ってもらい、赤ちゃんとの「線引き」は明確にあってもよかったのかもしれません。ここは、まだ試行錯誤の段階です。さらに昨今の「評価」や「成果発表」を前提にした「学校型」のワークショップから一度アーティストを解放して、彼らの内にある本来のクリエイティビティや想像力を参加者と自由に交感してもらう場としてもひらき、それを感じ取る子どもたちの生命の輝きは、引き続き大切にしたいと思っています。
そしてもちろん、この実験が可能になるのは、講師のアーティスト(音楽家・橋本知久さん、ダンサー/振付家 外山晴菜さん)が、国の内外で経験を積んでいる高いスキルや即興性を持った方たちだということです。その経験が下地にあるからこそ、一見’でたらめで’予測のつかない魅力的な世界が生まれていきます。

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